ソ連の平和賞を受賞した8人の米国人

ロシア・ビヨンド, Jean-Claude FRANCOLON/Getty Images, TASS, Nikolai Naumenkov/TASS, Public Domain
 スターリン時代、ソビエト政府は、外国人に対し、その政治的な立場にかかわらず、名誉ある平和賞を授けることを決めた。賞が存続した間、この賞は米国人にも授けられた。

 「民族間の平和の増進」を讃える国際平和賞は、ソ連で最も権威ある賞の一つだった。1949年に設置され、1955年まではスターリン平和賞と呼ばれていた。スターリン崇拝が終わるとレーニン賞に改称された。

 「政治的・宗教的・人種的な違いに関係なく、戦争挑発者に抵抗して平和の増進を求める闘争において秀でた功績」があった者を表彰する賞として、毎年全世界の5〜10名が受賞した。受賞者はメダルと証書、賞金(当時の相場で約25000ドル)を受け取った。受賞者の選定は特別委員会が行った。 

1. アーサー・モールトン(1950年)

左から順に、ソ連人作家アレクサンドル・ファデーエフ、社会学者ウィリアム・エドワード・バークハード・デュボイス、作曲家ドミトリー・ショスタコーヴィチ、社会活動家アーサー・モールトン、作家ラファエル・アルマット。ニューヨークで開かれた全世界平和問題文化学術会議にて

 モールトン(1873年〜1962年)はプロテスタントの司教で、社会活動家だった。普通の司祭だった頃に第一次世界大戦に従軍し、チャプレンとしてフランスの砲兵部隊や野戦病院に勤務した。戦後、米国ユタ州で司教の職に就いたが、1946年に引退し、世界平和の推進に取り組み始めた。スターリン平和賞の賞金は、「私が平和を求める活動で手に入れたい賞は平和だけだ」として受け取りを辞退した。

 ところで、同じ1950年、ソ連はもう一人の偉大な聖職者に同じ賞を授けていた。英国カンタベリー大聖堂の首席司祭ヒューレット・ジョンソンだ。彼はソビエト国家の大の友人、共産主義の支持者と考えられていた。

2. ポール・ロブスン(1952年)

子供キャンプ「アルテーク」を訪れたポール・ロブスン、1958年

 アフリカ系アメリカ人の歌手・俳優ポール・ロブスン(1898年〜1976年)は、米国の人種差別に強く抵抗した人物で、ソ連は多民族国家で人種差別がないとして、ソ連に共感を示していた。こうした姿勢が原因で、ロブスンはFBIから特に目を付けられており、後に彼のコンサートは米国では禁止された。

 1934年、ポールはソ連人映画監督セルゲイ・エイゼンシュテインの招きでモスクワに来た。米国の人種差別をテーマにした映画に出演する予定だったが、これは実現しなかった。「ここでは私は人生で初めて尊厳ある人間として歩くことができた。これが黒人である私にとってどれほど意味を持つか、想像できないだろう」というロブスンの言葉を、伝記作家スコット・ノレンが引用している。1949年、彼は公演のため再びソ連を訪れ、ロシア語の曲も歌った。

 1950年代初め、ロブスンは反米的であるとして「ハリウッドのブラックリスト」に載り、出国を禁じられた。一方でソ連は1952年にロブスンにスターリン平和賞を授けた。

 スターリンが死去すると、彼は読む者を感動させる記事を書き、スターリンの「民族友好」の政策を賞賛した。米国人歌手はその後もソ連にやって来た。1958年にソ連でコンサートを開き、テレビに出演してソ連の観衆と対面した。

3. ハワード・ファスト(1953年)

 米国人作家ハワード・ファスト(1914年〜2003年)の父親はロシア帝国出身者だった。ファストは人種差別に基づく憎悪を批判し、米国共産党に入っていた。「反米活動」が原因で数年間投獄されたが、そこで古代の奴隷反乱を描く有名な小説『スパルタクス』の執筆を始めた。これは後にステンリー・キューブリックによって映像化され、ソ連で最も人気のある外国映画の一つになった。

 1953年、ファストに平和賞が授けられると、ソ連の新聞で活発に彼の作品が取り上げられるようになり、ソ連の諸民族の言語で小説が出版された。しかし、その後彼はソ連の政策に対する態度を変え、結果としてソ連では忘却されていった。

4. ウィリアム・デュボイス(1959年)

1959年にレニングラードを訪れたウィリアム・デュボイスと米国人作家シャーリー・グラハム(左)

 社会活動家で作家のウィリアム・デュボイス(1868年〜1963年)は1895年にアフリカ系アメリカ人として初めてハーバード大学の博士号を取得した。20世紀初め、彼は全国有色人種地位向上協会を設立し、ポール・ロブスンが創設した米国対リンチ十字軍も支援した。

 デュボイスは何度もソ連を訪れ、左翼思想を持っていたため、ソ連のスパイという嫌疑を掛けられた。しかし、裁判は始まらず、彼の協会を支持していたアルベルト・アインシュタインなど影響力のある人々がデュボイスを擁護した。1959年、デュボイスはソ連の平和賞を受賞し、1961年には作家は米国共産党に入った。後に彼は米国に失望してガーナに亡命した。

5. サイラス・イートン(1960年)

1964年に訪ソしたサイラス・イートンと握手するニキータ・フルシチョフ(左)

 カナダ出身の米国人企業家イートン・サイラス(1883年〜1979年)はガスと冶金の分野で大きな財を成した。1950年代、彼はソ連でのビジネスの拡大の好機を探していた。何度もソ連を訪れ、ニキータ・フルシチョフとも会っていた。カザフスタン・ソビエト社会主義共和国からクロム鉄鉱を購入するため、イートンはカナダに新しい会社を登録しなければならなかった。冷戦の最中、よもや米国の会社がソ連と取引をすることはできなかったからだ。

 イートンは米ソ関係を改善しようとし、両国の軍縮に賛同した。彼はまた科学者らによるパグウォッシュ会議のスポンサーとなり、ソ連の教授を3人招いた。その結果、1960年、サイラスはレーニン平和賞を授けられた。その後彼はシベリアのガス・パイプラインやモスクワの高層ビルなどの建設事業に投資しようとした。しかし、野心的なプロジェクトは結局実現しなかった。

6. ロックウェル・ケント(1967年)

ソ連作家同盟に自身の絵画を贈るロックウェル・ケント、1967年

 画家ロックウェル・ケント(1882年〜1971年)は社会主義の信奉者で、米国ではあまり好まれなかった。彼はソ連では逆に大変な人気を博し、米ソ友好国民会議の議長という名誉ある職も任された(1957年から1971年まで務めた)。

 その上、ケントの写実主義の画風は、米国では人々の興味を引かなかったが、その代わりソ連の公式芸術の美学にぴったり合致していた。1960年代、ケントは自身の絵画の多くをソ連国民に贈り、ソ連芸術アカデミーの名誉会員の称号を授かった。1967年には平和賞を受賞し、賞金の一部を慈善活動に充てた。

7. ライナス・ポーリング(1970年)

1978年にモスクワ大学で開かれた国際シンポジウム「生物有機化学と分子生物学の展望」で登壇するライナス・ポーリング

 ソ連の平和賞を獲得するまでに、米国人化学者ライナス・ポーリング(1901年〜1994年)は2つのノーベル賞を受賞していた。1954年のノーベル化学賞と1962年のノーベル平和賞だ。ポーリングは量子力学から分子生物学までカバーし、その科学的関心領域が非常に広いことで世界中に知られた学者だった。

 ポーリングは核兵器の拡散に反対し、核兵器が大気に悪影響を与え、未来の世代にとって脅威になることを訴えた。1950年代には彼の「ブルジョワ的」で「似非科学」の化学理論はソ連では批判されていたのだが、ブレジネフ時代には彼の平和を求める闘争が評価されたわけである。 

8. アンジェラ・デイヴィス(1979年)

レーニン賞の授賞式に参加したアンジェラ・デイヴィス、1979年

 ソ連では共産主義者アンジェラ・デイヴィス(1944年生まれ)は非常に人気があった。アフリカ系アメリカ人で人権擁護活動家であり、左翼思想を持つ彼女は、多くのソ連人のアイドルになった。1970年に彼女が誘拐と殺人に共謀・関与した嫌疑で逮捕・投獄されると、ソ連では「アンジェラ・デイヴィスに自由を!」というスローガンが広まった。ソ連の子供たちは獄中のデイヴィスに手紙を書いた。

赤の広場にやって来たデイヴィス

 デイヴィスは釈放後、何度かソ連を訪れ、支持者と対面し、ソ連の女性運動の会合に参加したり、青年フェスティバルに登場したりした。1979年に平和賞を受賞する以前にも、1972年にウラジーミル・レーニンの誕生日を記念するメダルを受章し、モスクワ大学の名誉博士の称号を授けられていた。

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