なぜフランスの反抗する学生たちは、今なおソルボンヌ大学の壁に「バクーニンを読め!」と書くのか?しかもこれは、思想家ピエール・ジョゼフ・プルードン(1809~1865年)の故国でのことだ。
プルードンは初めてアナキストをもって任じた人物で、「財産、それは盗奪である」と言い放ち、自由労働を提唱している。ロシアの、無政府主義と国家否定の使徒たち――ミハイル・バクーニンとピョートル・クロポトキン――は、何をやったのだろうか?なぜ、世界中で彼らの言説が引用されるようになったのか?
バクーニンの引用文「破壊的衝動は創造的衝動である」
Legion Media「自身の幸福を他者の幸福に求め、自身の尊厳を周囲の人間すべての尊厳に求める。他者が自由であることによって自らも自由となる。これが私の信条のすべてだ」。専制の不俱戴天の仇、ミハイル・バクーニン(1814~1876年)はこう書いた。
彼は国家に対し、別の選択肢を提示した。それは新しいタイプの社会であり、自主性と自己組織化の原則に基づいて構築されるべきものだった。バクーニンは、連邦主義を権力に、共同財産を資本主義に、教育、啓蒙を宗教に対置した。
バクーニンは、トヴェリ市近くの、故郷の領地に哲学サークルを作るが、哲学的抽象論から闘争へと傾斜していく。ヘーゲルの弟子たちの講義を聞くためにヨーロッパに渡ると、彼はすぐにロシアにはもう戻れないと悟る。1845年にパリの新聞がニコライ1世の勅令を発表。それはバクーニンの故国におけるすべての権利を剥奪するものだった。このロシア人亡命者は、それに対して、専制への公然たる批判で応える。
スイスでは、時計職人たちが、バクーニンの無政府主義プロパガンダの主な聴き手になった。彼らは、ジュラ州の各々の家で、細かい機械を組み立てていただけでなく、たくさん読書していたから、ロシアの「謀反人」の呼びかけに鋭く反応した。ラ・ショー=ド=フォン周辺のいくつかの町で、彼は、いわばバクーニン版インターナショナル、「ジュラ連合」を創設した。
ミハイル・バクーニンの肖像画、1838年
Public domain1848年のパリの「二月革命」、プラハのバリケード、ポーランドの蜂起、インターナショナル・スペイン支部の創設への参加、ボローニャの無政府主義運動…。バクーニンは常に、革命の炎の震源地にいた。「否定の精神は創造の精神であり、破壊の情熱は創造的な情熱でもある」。このアナキストはそう考えていた。
1849年のドレスデン五月蜂起の際、バクーニンはバリケードに、ドレスデン美術館の傑作を立て並べようと提案した。プロイセン軍は、美術作品に遠慮して撃たないだろうと考えたわけだ。しかし、蜂起は鎮圧され、「ドレスデンのマドンナ」(『システィーナの聖母』)も被害を受けなかったが、バクーニンはザクセンとオーストリアの2か国で同時に死刑を宣告された。
オロモウツ(オルミュッツ)でこの反逆者は、壁に鎖でつながれた。この状態で彼は6か月を過ごした。バクーニンをロシア当局に移送する決定が明らかになると、この囚人は、二度にわたり餓死しようとし、さらにマッチの燐で服毒自殺も試みた。だが、「彼は、その稀な健康を損なうことなく、それらを食べてしまった」。ミハイル・シーシキンの著書『ロシアのスイス』に収められているナタリア・トゥチコワ=オガリョワの証言だ。
ペトロパヴロフスク要塞とシュリッセリブルク要塞の監獄独房で、バクーニンは歯がすべて抜け落ちてしまう――壊血病のせいだ。後年、バクーニンは次のように振り返っている。「恐るべきものは終身刑だ。目的もなく、希望もなく、興味もなく人生がだらだらと空しく過ぎていく!凄まじい歯痛が何週間も続く…」
バクーニンが生まれた場所、プリャムクヒノ
Public domain監獄で彼は、「懺悔」を書き、そのなかで自分の「罪」を呪い、自分の計画が実現されなかったことを神に感謝して見せた(神など彼は信じていなかったのだが)。さらに改悛の手紙を書いた後で、この「祈る罪人」は、シベリアへの終身流刑となった。
バクーニンによると、シベリアでは何もやることがなかった。1861年、アムール沿岸を学術目的で旅行する許可を得て、彼は、妻をイルクーツクに残し、地理的に最長の脱走を行った。「権利も義務もない。絶対的な愛だけがあり、そして愛があるときは義務はない」。こうバクーニンは説いた。
ミハイル・バクーニンと妻アンとニーナ・クビャツスカヤ
Public domainバクーニンは、友人の作家イワン・ツルゲーネフに次のように書いている。
「アムールは…いい川で、蒸気船に乗ることができる。アメリカの船が、アムール河口のニコラエフスク(ニコラエフスク・ナ・アムーレ)まで行く。それで私も、汽船でアムールをニコラスクまで下り、そこからアメリカのクリッパー船で日本へ、そして日本からサンフランシスコ、ニューヨーク、ボストン、ロンドンへと渡っていった」
ロンドンでバクーニンを待っていたのは、ロシア最初の革命的新聞「コロコル(鐘)」での仕事と、マルクスの権威主義との闘いだった。
「監獄と流刑は、独特の仕方で強い人々を保存する…。彼らは、まるで気絶した状態から目が覚めたように、そこから出てくる。そして、意識を失ったときにやっていたことを続けるのだ」。革命家・思想家で「コロコル」を発行していたアレクサンドル・ゲルツェンは、こう述べている。
バクーニンは、作曲家リヒャルト・ワーグナーの楽劇『ニーベルングの指環』におけるジークフリートのイメージを、ある程度インスパイアした。また、ツルゲーネフ初の長編小説『ルージン』の同名の主人公も、彼がモデルだ。
「彼は、旺盛極まる活動をやる能力があった。夢の中か、クーパーの冒険小説にしか出てこないような企てもやれた。と同時にバクーニンは、怠惰で、『濡れた生(なま)の』男だった。成熟することがなく、いつも汗だくで、巨大な体躯に、ライオンのたてがみのような髪、犬みたいに腫れたまぶたをしていた。こういうのは、ロシアの貴族にはよくある」。象徴派の大詩人アレクサンドル・ブロークは彼について記している。
ミハイル・バクーニン、1860年
Heritage Images/Getty Imagesバクーニンは、明日を気にせずに生きていた。あるとき彼は、ジュネーブでロシア人たちの前で話した後、居酒屋で夕食をとろうと誘った。
「もちろん、私が諸君をご馳走する。私の『パンと塩』を受けない者は、みんな地獄行きだよ」。客たちは遠慮して、半人前しか注文しなかったが、バクーニンは全員に肉、チーズ、数リットルのワインを注文。勘定が持ってこられると、彼は、片方のポケット、それからもう片方のポケットをゴソゴソ引っかきまわし、爆笑した。
「わが国庫は、手持ちの現金がないので、国内債券を強制的に購入させるしかない。勇敢なるロシア人諸君、助けてください」。しかしバクーニンは、お金を返すのは忘れたままだった。
このアナキストは、窮乏、病気、迫害のなかで人生の終わりを迎えた。彼は、第一インターナショナルから、マルクス一派により追放されている。そのマルクスとエンゲルスは、バクーニン主義をこう揶揄した。「占星術と錬金術が科学の幼年時代を表すように、それはプロレタリア運動の幼年時代を示している」
「脂ぎった巨体に、酩酊したジュピターの頭が乗っている。まるで、ロシアの居酒屋で夜通し飲んだかのようだ…。壮観だが哀れでもあった。まるで、火事で焼けた巨大な建物みたいだった」。死の数年前のバクーニンを同時代人はこう描いている。
バクーニンは、ベルンの労働者用の病院で亡くなった。この病院へは、彼自身の希望で収容されたのだ。1世紀後、フランスの実存主義者アルベール・カミュは、バクーニンはレーニンとスターリンの直接の先駆者だ、と書いている。
「…かつてバクーニンが皇帝に提示した形での、革命的なスラヴ帝国の夢は、国境などの細部に至るまで、スターリンによって実現された」
ピョートル・クロポトキン
Public domainヴァイオリニストは、アポリナリ・コンツキーの熱狂的なマズルカを演奏し始めた。「『今しかない!』と、脳裏に閃いたのを覚えている。私は、緑のフランネルのローブを脱ぎ捨てて走り出した」。
公爵家の出身で学者・アナキストのピョートル・クロポトキン(1842~1921年)は、監獄からの見事な脱走劇をこう振り返っている。
優れた地理学者および地形学者である彼は、シベリアと中央アジアの地質構造、氷河の理論を研究し、ある地形の存在を予見した。これは後に、オーストリア皇帝フランツ・ヨーゼフ1世にちなんで名付けられることになる(ゼムリャフランツァヨシファ)。自然の中でのこうした観察により、クロポトキンは、科学的アナキズムの思想に達する。すなわち、人間の良い性質に基づいて社会を構築するという考えだ。
ダーウィンの信奉者とは対照的に、このロシアの科学者は、動物において種内闘争ではなく協力を見出した。
「我々の地下室でいつも争っているネズミのような、喧嘩っ早い動物でさえ、倉庫から食物を奪うときは、喧嘩するだけでなく、獲物を襲ったり移動したりする際に助け合う賢さを備えている。彼らは時に『障害者』を養うことさえあるのが知られている」。こう科学者は記している。
動物とのアナロジーにより、クロポトキンは、相互扶助が社会の進歩の鍵だと考えた。彼のアナキズムは、単なる哲学的思想ではなく、自然界そのものの傾向だ。
バクーニンの「反抗」が人間の性質、つまりその「動物性」に抗して向けられているとすると、クロポトキンはそれに訴えかけたのである。人々に自由を与えれば、善を行うだろう――。
クロポトキンは、早くも現代社会に無政府共産主義の萌芽を見ていた。たとえば、図書館、協同組合、公益事業などがそうで、それらは、社会の利益のためにサービスを提供している。クロポトキンは、共産主義なき無政府状態を利己的な個人の恣意と考え、無政府主義なき共産主義を専制とみなした。
クロポトキンはまた、アナキストの原則に基づいて、自分の婚姻関係も結んだ。家庭的結合の平等は、3年間ごとの契約と合意によって守られていた。結婚生活は、クロポトキンが78歳で亡くなるまで続き、その間に契約は14回延長されている。
ピョートル・クロポトキンと妻ソフィア・アナニエワ=ラビノービチ
Public domain相互援助の理論は、捕われの身にあってさえ、クロポトキンを支えた。1874年に、この科学者は革命的なサークルに所属し宣伝活動を行ったかどで、ペトロパヴロフスク要塞に収監される。じめじめした独房で何年も過ごしたため、健康を損なった。医者によると、クロポトキンの余命は10日以下という状態になり、軍病院に移された。そのときに脱出計画が練られ、友人たちが実行を助けた。
監視下での1時間の散歩のときに脱走する、と決められた。向かい側のダーチャ(別荘)が借りられ、信号のシステムが考え出された。すなわち、鏡による光の反射、風船、さくらんぼを食べる住民…。最終的な脱出計画は、小さなメモに暗号化されて記され、腕時計に隠された。そのメモを、彼の親戚の女性が、自らの自由を危険にさらしつつ、クロポトキンに渡したのである。
クロポトキン脱走の計画
Public domain囚人は、決行の日に散歩に出ると、ヴァイオリンの音を聞いた。それは時々中断された。しかし奏者が陽気なマズルカを弾き出したとき、「脱走は今だ!」と分かった。
このとき、病院の研究室で働いていた歩哨は、顕微鏡で見えた寄生虫についての会話に気を取られていた。「そいつの尻尾がすごく大きいのを見たか?」
まさにそのとき、クロポトキンは脇を走り抜け、馬車に飛び乗り、その後、40年にわたってロシアを離れた。
「素晴らしい夜だった。我々は島に急いだ。ここは、シックなサンクトペテルブルク市民が、夏の晴れた日に夕日を眺める場所だ」。クロポトキンは、ロマン主義にも無縁ではなく、後年、その日をこんな風に思い出している。
亡命中、このロシアの公爵は、アナキズムの理論家、および世界的な科学者として権威を得た。彼がロシアに戻ったのは、社会主義革命前夜の1917年夏だ。
ピョートル・クロポトキンはモスクワにて、1917年
Public domainこのアナキストは、二月革命後に成立していた臨時政府内に大臣のポストを提示され、これは大方の予想通り拒否したが、国家会議で、連邦共和国の樹立を主張し、より過激な若い同時代人の不満を買った。
クロポトキンは、ソ連の建国者ウラジーミル・レーニンと面識があった。レーニンは、この思想家・科学者から手厳しく批判されたにもかかわらず、彼のためにしばしば配慮している。
ピョートル・クロポトキンの葬式
Public domainレーニンは自ら、次のような指令を出した。クロポトキンとその家族が住む、ドミトロフの邸宅は、「接収、他者との共住などに関するあらゆる要求を免除される」。そして、クロポトキンが病気になったときは、最高の医者を差し向けた。
ピョートル・クロポトキンの葬式
Public domain「二つに一つだ。国家は、個人と地域の生活を破壊し、…戦争をもたらし、単に独裁者を取り換えるだけの表面的な革命を起こし、ついには必然的な帰結、すなわち死をもたらす!さもなくば、国家は破壊されねばならない。この場合には、自由な合意に基づいて、エネルギッシュな、個人およびグループのイニシアチブに基づいて、無数の中心において新たな生活が生まれるだろう」。クロポトキンは、二つ目の選択肢への希望を失うことなく書いている。
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