ロシアの5人の預言者たち…信じるも信じないもあなた次第

Russia Beyond (Legion Media, Public Domain)
 彼らはすべて、1917年のロシア革命の前に生きた人物だ。彼らのなかには、聖人として列聖された者もいるが、教会がその「聖性」を認めない者もいる。しかし、いずれもロシアの未来について予言しており、そのうちのいくつは現実となった。

ウスチュグのプロコーピイ(?~1303年)

 ウスチュグのプロコーピイは、13世紀に生きた人物で、ユロージヴイ(放浪無宿の聖なる愚者)として知られている。最初はノヴゴロドに、後にヴェリーキー・ウスチュグに住んだ。彼は襤褸をまとって歩き、屋外で夜を過ごし、寝た――地面、石、ゴミの山の上で。

 あるとき彼は町の人々に、ヴェリーキー・ウスチュグが「ソドムとゴモラ」の運命に見舞われないように、祈り悔い改めよ、と促した。『旧約聖書』の「創世記」によると、これらの都市は、その堕落のゆえに罰せられた。

 「主は硫黄と火とを主の所すなわち天からソドムとゴモラの上に降らせて、これらの町と、すべての低地と、その町々のすべての住民と、その地にはえている物を、ことごとく滅ぼされた」(19章)。

 プロコーピイは、かねてより天罰を予見していたが、人々はあまり気にかけなかった。1290年夏に彼は、ヴェリーキー・ウスチュグの住民に、悔い改めよと熱心に説き始めた。一週間後、凄まじい嵐が実際に始まった。住民たちは教会に駆けつけ、そこで熱烈に祈るプロコーピイの姿を見た。言い伝えによると、彼はヴェリーキー・ウスチュグを救った。すなわち彼は、飛来する「石の黒雲」を町からしりぞけたのである。

 「正午に、突然、黒雲がウスチュグの街に飛来し、あたかも夜のように暗くなった。そして、四方に巨大な雲が湧き上がり、燃えるような稲妻が絶えず閃き、ウスティウグの町には耳を聾せんばかりの雷が鳴り響き、お互いの話さえ聞こえぬほどだった」

  しかし、プロコーピイは人々とともに、聖母にとりなしを祈った。そして、

  「大気のありさまが変わり、雷電をともなう恐るべき黒雲が、町から30露里(30キロメートル強)の荒野に退き、燃える大きな石が降り注ぎ、多くの森林を焼いたが、聖母のとりなしとプロコーピイの祈りにより、家畜も住民も誰一人として死ななかった」

 ウスチュグのプロコーピイの聖者伝は、彼の功業についてこのように伝えている。この後、彼はさらに尊敬を集めるようになったという。

 プロコーピイは、ロシアの生まれではなかった。父親の死後、彼は家産を船に積んで、東プロイセン地域を離れ、ノヴゴロドにやって来た。聖者伝によれば、彼は、リューベックの由緒ある商人の出だという。ノヴゴロドで、多数の教会や修道院が林立するありさまに驚嘆し、正教に改宗して、すべての財産を分配し、ユロージヴイとなった。ノヴゴロドからさらにヴェリーキー・ウスチュグに移ったのは、ノヴゴロドの人々が、彼の無欲と無一文の暮らしのために、彼をあまりに崇め始めたからだという。

聖プロコーピイの教会、ヴェリーキー・ウスチュグ

 プロコーピイは、町に降り注ぐ石について予言した後、さらに13年ほど生きた。おそらく、ヴェリーキー・ウスチュグには、隕石が落下したものとみられる。1290年6月25日に、同市の北西約20キロメートルにあるコトヴァロヴォ村付近に落下したらしいが、しかし、これまでのところ「石の雨」の痕跡は見つかっていないので、国際隕石学会の登録簿には、「信憑性が疑わしい」と記されてはいるが。

 オブロヴォ村近くの「石の雨」が降ったとされる場所は、古くから巡礼を引きつけてきた。1860年には、ヴェリーキー・ウスチュグの住民は、「6月25日に、ウスチュグのウスペンスキー大聖堂から十字行を行う」ことさえ、公式に許された。十字行とは、正教の、聖堂外での行進で、ここでの行く先は、オブロヴォ村近くの礼拝堂だ。「1290年に、古の言い伝えによれば、石の雲がここに落ちた」と、その許可には記されていた。

 

聖ワシリイ(1460年代~1557年?)

聖ワシリイとモスクワのイオアン

 名高いモスクワの「聖なる愚者」、聖ワシリイは、早くから預言者として知られるようになった。ワシリイは少年時代、靴職人の店で働いていたが、あるとき、男がやって来て「数年間履きつぶさないような」靴を作ってくれ、と注文した。それを聞くなり、ワシリイは、初め笑って、それから泣き出した。靴屋の親方がその理由を尋ねると、ワシリイは親方に、あの人には「数年間履きつぶさないような」靴など必要ない――あの人は明日死ぬからだ。ワシリイはこう答え、実際、その通りになってしまった。しかし、これはワシリイの予言のなかでは、最もささやかなものだった。

 1547年夏、ワシリイは、モスクワのヴォズネセンスキー修道院にやって来て、イコン(聖像)の前で懸命に祈った。翌日、まさにこの修道院の教会から、モスクワの大火が発生し、街の三分の一を焼野原にした。

 言い伝えによると、1521年に若きワシリイは、クリミア・ハン国のメフメト1世ギレイのロシア遠征を予言した。この遠征で、ニジニ・ノヴゴロド、ウラジーミルなど、中央ロシアの一連の都市が甚大な被害を被った。それに先立ってワシリイは、ウスペンスキー大聖堂で「炎が燃え上がるさま」を見たという。

 ワシリイは、あのイワン4世(雷帝)からさえ尊敬されていた――ワシリイの預言の力のためにだ。雷帝は、ワシリイが自分を皮肉ったり、冗談を言ったり、自分を「イワシカ」(これはイワンの蔑称に近い)と呼ぶことを許したりしていたことが知られている。神を恐れたイワンは、この聖なる愚者を叱責したり罰したりすることを敢えてしなかった。

 伝説によると、雷帝から盃で葡萄酒を与えられたワシリイは、その盃の中身を地面にこぼしてしまった(窓の外にこぼしたという説もある)。周囲は、この聖なる愚者が偶然こぼしてしまったと思い、もう一度葡萄酒を注いだが、ワシリイは、自分はこうやってノヴゴロドの火事を消したのだ、と説明した。後で分かったことだが、実際にその日、ノヴゴロドでは大火が起き、鎮火していた。

 ワシリイが永眠すると、その葬式に際しては、雷帝と后アナスタシアも参列し、ツァーリ自らワシリイの棺をかついだという。葬儀は、モスクワ府主教マカリーが執り行った。雷帝の死後間もなく、フョードル1世の治世中の1588年にワシリイは列聖され、その聖骸は、聖ワシリイ大聖堂に移された。

 

ペテルブルクのクセニア(1731~1802年)

 聖クセニアもユロージヴイ(聖なる愚者)だ。その生涯に関する公式の文書は残っていないが、サンクトペテルブルクの言い伝えに残る、彼女についての記憶は強烈であり、その実在を疑うことはできない。彼女は、中佐で宮廷聖歌隊員のアンドレイ・ペトロフの妻だったが、クセニアが26歳のときに突然亡くなった。夫の死後、彼女はユロージヴイの道を選んだ。

 夫の葬式にクセニアは、夫の服を着て現れた。そして彼女は、自分の名前を呼ばれてもそれに答えなくなった。「クセニアは死んだ、自分はアンドレイ・フョードロヴィチです」というのだ。

 葬式の後、クセニアは夫の家を売り、すべてのお金を教会か知人に寄付し、サンクトペテルブルクをさまよい始めた。伝説によると、夫の服が朽ち果てると、クセニアは緑のスカートと赤いシャツを着て歩くようになる。これは、夫が着ていた軍服の色だった。

 クセニアは喜捨で暮らしていた。「馬に乗ったツァーリをください!」と、彼女はいつも頼んだ。これは、1コペイカ(*100コペイカ=1ルーブル)の銅貨を意味し、彼女は、それ以上取らなかった。ある店では、クセニアが「馬に乗ったツァーリ」を求めると、数枚の金貨が、気がつかないうちに、彼女のポケットに押し込まれることもあった。

 しかし、店を出てから金貨に気づくと、彼女は店に戻って、お金を返し、「馬に乗ったツァーリだけください」と言った。「せめて何ルーブルか取ってください」と言われても、彼女は、「それ以上は必要ありません」と頑なに答えた。

 クセニアの最も有名な予言は、複数の皇帝の死に関するものだ。1764年夏、路上で泣いている彼女がしばしば見かけられた。

 「どうしたんです、アンドレイ・フョードロヴィチ?」。人々がクセニアに尋ねると、こんな答えが返ってきた。「あそこには、血、血、血が流れている!川も運河も、どこもかしこも血だらけです」

 その後、1764年7月、シュリッセリブルク要塞監獄で、廃帝イワン6世の救出の試みがあり、その際に刺殺されたことが分かった。

 また、伝説によると、クセニアはこの出来事に先立って、女帝エリザヴェータ・ペトローヴナの死を予見していた。1761年の大晦日まであと数日というとき、帝都の住民は、彼女がこう叫ぶのを耳にした。

 「ブリン(パンケーキ)を焼いてください。間もなくロシア全土がブリンを焼くでしょう!」。12月25日、女帝は急死した。クセニアはこの死を予見したと信じられている。ロシアのブリンは、クチヤ(レーズンとドライフルーツの入ったお米のカーシャ〈粥〉)とともに、伝統的な葬儀の食事だからだ。

クセニアの墓の上の礼拝堂

 クセニアが亡くなった時期について正確な記録は残っていないが、19世紀初めのことだ。スモレンスコエ墓地の彼女の墓は、巡礼の地となった。そして人々は、彼女の墓から土と砂を持ち帰った。その後、クセニアの墓の上に礼拝堂が建てられた。

 

修道士アヴェリ(1757~1841年)

 修道士アヴェリに関する唯一の文書は、1796年の司法参議会(法務省に相当)の事件だ。この人物が自分の予言を書いた67頁の本が問題になった。

 修道士アヴェリと名乗った農民ワシリー・ワシリエフは、18世紀末に実際に説教をしていたようだ。1780年代に彼は、ヴァラーム修道院で修道誓願を立てたが、修道院にとどまらず、各地を放浪した。1796年、コストロマ主教区のニコロ・ババエフスキー修道院で、アヴェリとともにその予言の書が見つかった。その本には、女帝エカチェリーナ2世が8か月後に死ぬと書かれていた。

 この発見は、深刻な結果をもたらした。アヴェリは逮捕され、女帝はこの予言について知らされた。そしてアヴェリは、帝国の秘密警察に尋問されて、シュリッセリブルク要塞に投獄された。

 しかし、エカチェリーナ2世と不仲だった息子パーヴェルが即位すると、アヴェリは釈放され、帝都のアレクサンドル・ネフスキー大修道院で洗礼を受けた。しかし、その後間もなく彼は、人々からお金をもらって未来を占ったかどで、モスクワで逮捕された。

 1798年、アヴェリは、ヴァラーム修道院に追放され、2年後、その庵室でまたも新しい予言の本が見つかった。噂によると、パーヴェル1世の死がその中で予言されていた。

 このため、アヴェリは、帝都のペトロ・パヴロフスク要塞のアレクセーエフスキー半月堡に投獄された。

 この皇帝の死後、今度は、白海のソロヴェツキー修道院に流刑となり、1812年の祖国戦争とモスクワ大火を予言したという。やがて彼は釈放され、さまよい続ける。

スーズダリのスパソ・エフフィミエフ修道院

 こうしてアヴェリは10年以上、自由の身で過ごした後、1826年に再び、スーズダリのスパソ・エフフィミエフ修道院に流刑となり、1841年に亡くなった。彼はすでに80歳を超えていた。

 

イワン・ヤコヴレヴィチ・コレイシャ(1783~1861年)

 ロシアの真の「聖なる愚者」のなかで、年代的にいちばん最近の人物だ。彼は、19世紀前半の名高い預言者であり、その生涯の大半を、モスクワのプレオブラジェンスキー病院で過ごしている。

 コレイシャは神学校で神学を学び、その後、教師として働いたが、22歳の時に、いわく言い難い内面の促しに従い、放浪を始めたという。あちこちの修道院と荒野を3年間さまよった後、彼は、故郷のスモレンスクに戻り、菜園の無人のバーニャ(ロシア式蒸し風呂)に住み着いた。そこで彼は、「詩篇」を歌い、聖なる愚者として有名になった。ここにおいて、コレイシャの予知と預言の力が顕在化したのだという。

 コレイシャは、誰にでも、庶民にも貴族にも、自分の予見を語った。主に、彼らの近親者が生きるか死ぬかを予告したのである。しばしば彼は、死にそうな人の寝台の傍に来て、生きるかどうかを見定めた。そのほとんどすべての予言が正しかったために、彼の人気はいやがうえにも高まった。

 そして1811年冬、あなたはそんな襤褸を着て寒くないか、と聞かれて、コレイシャはこう述べた。「1年待つと、暑くなり、それから凍えることになる」。これは、ナポレオンによるスモレンスク包囲を予言したものと考えられている。城塞都市スモレンスクは、陥落して焼け落ち、やがて厳しい冬を迎えることになる。

 1813年、市当局は、コレイシャが正気を失ったと宣言し、スモレンスクの病院に隔離しようとする。言い伝えでは、この予言者がスモレンスク市の役人らの横領を暴露したのが原因だという。しかし、病院はすぐに彼の崇拝者の巡礼地になった。そこで、1816年にコレイシャは、モスクワ・ドルガウズ(ドイツ語のTollhaus〈精神病院〉が語源)に移された。当時、プレオブラジェンスキー精神病院はこう呼ばれていた。

プレオブラジェンスキー精神病院、1910年代

 コレイシャはすぐにここでも有名になった。彼は看守に対し、お前の娘は麻疹だが治るだろうと予言した。驚いた看守は、モスクワ中にこの「千里眼」についての評判を広めた。

 間もなく、ここでもまた、コレイシャのもとにはひっきりなしに訪問者がやって来ることになる。モスクワ総督の妻さえ訪ねてきて、コレイシャの能力に感銘を受けている(彼はその夜、総督がどこにいるかを正確に言い当てた)。この訪問の後で、病院におけるコレイシャの待遇は改善された。

 コレイシャは、病院の個室に隔離されたが、その病室は、彼の希望により、ほとんど清掃されなかった。コレイシャがすでに年老いていた1856年に病院を訪れたデムレン博士は、こう書いている。

 「(彼の部屋は)病室ではなく、動物の巣のように見えた。イワン・ヤコヴレヴィチ自身は、直に床に、厚い砂ぼこりの層の上に寝ていた。そして襤褸切れと汚れ切った毛布にくるまれていたので、見るだけで吐き気が喉元にこみ上げてきた…。彼の胸は、髪と汚れで覆われていた。枕も、汚れと脂に分厚く覆われていた」

 コレイシャの長椅子の向かいに、訪問者のためのソファが置かれていた。病室の入口前には、病院への寄付金を入れるカップがあった。病院の幹部は、数年のうちに、コレイシャの人気を利用して収入を得なければならぬと気づいた。病院の主治医だった有名な精神科医、ワシリイ・サブレルは次のように言っている。

 「我々はとても貧しい。イワン・ヤコヴレヴィチがい​​なかったら、どうやってやりくりできたか分からない」

 コレイシャに会うための料金は、銀で20コペイカと正式に決められていた。資金は病院の改善に向けられ、コレイシャは、「過度の読書による狂気」という診断を受けた。

 正教会は、コレイシャの死後、彼を聖人と認めず、したがって列聖もしなかった。

 最晩年にはコレイシャは、ロシア全土で有名になっていた。彼は訪問者の質問に答えただけでなく、漠然と比喩的にではあるが、全般的な予言もしている。たとえば、クリミア戦争が始まる前に、コレイシャは、乾パンを作り、包帯を準備し、古布をほぐす必要があると言った(当時は、古着をほぐして脱脂綿の代用にした)。

 言い伝えによると、皇帝ニコライ1世自身がコレイシャを訪れた。部屋に入ると、皇帝はコレイシャに、なぜいつも寝ていて起きないのか、と尋ねた。予言者の答えはこうだった。「あなたが今いかに偉大で畏怖されていようと、今に横臥することとなろう。そして二度と起き上がるまい!」(*戦争末期、敗北に打ちひしがれたニコライ1世は急死した。自殺説もある)。

 コレイシャは、作家フョードル・ドストエフスキーとニコライ・レスコフの作品にも出てくる。本名で登場したり、作中のユロージヴイのモデルとして現われたりする。

イワン・ヤコヴレヴィチ・コレイシャの墓

 コレイシャは1861年に亡くなり、病院から遠くないチェルキーゾヴォの預言者エリヤ(イリヤ)教会の墓地に葬られた。彼の墓は、死後長年にわたり尊崇の場であり、今なお尊敬されている。

もっと読む:

このウェブサイトはクッキーを使用している。詳細は こちらを クリックしてください。

クッキーを受け入れる