1941年10月から1942年4月まで続いたソ連の首都をめぐる攻防戦には、双方合わせて700万人が動員された。人類史上最大規模の戦いの一つが始まったのは、首都への接近路で赤軍が大敗を喫したことがきっかけだった。ヴャジマ包囲戦だけでも死者、負傷者、行方不明者は約90万人に上った。
戦いが最も激しかった12月初めには、ドイツ軍はモスクワからわずか数十キロメートルのところに迫り、決戦の準備をしていた。「現時点で敵は予備戦力として使用できる完全な兵団を少しも有していない」とドイツ国防軍陸軍総司令部は12月3日に断言している。
しかし間もなく、ドイツ軍が赤軍の能力を過小評価していたことが分かった。ソビエト軍は12月5日から6日には首都に予備役兵の大軍を集結させ、大規模な反撃に転じたのだ。敵の激しい抵抗に疲弊したドイツ軍は、慌てて首都からの急撤退を始めた。いくつかの州を解放してドイツ軍をモスクワから150~250キロメートル遠ざけた赤軍の攻撃がやんだのは1942年春のことだった。
第二次世界大戦で最も重要な戦いは、人類史上最も多くの血が流された戦いの一つとなった。戦闘に参加した双方200万人以上の兵士のうち、戦場で死亡したり、負傷して病院で死亡したり、行方不明になったりした兵士の数は約100万人に上った。
ヴォルガ川沿岸の街を失うことはソ連にとって恐ろしい悪夢だった。そうすればドイツ軍は南方からモスクワを攻撃する予備戦力を解放し、さらにはコーカサスへの「石油狩り」を続けることができるからだ。戦争を支えるソ連全国の石油のうち7割以上をコーカサスの石油が占めていた。
11月半ばまでに、ヴォルガ川で粘っていたソビエト軍は岸辺のいくつかの小さな前哨基地を持つのみだった。勝利はドイツがつかんだも同然だった。しかし1942年11月19日、赤軍はウラヌス作戦を実行し、市内にいた第6装甲軍と第4装甲軍の一部の側面を守っていた脆弱なルーマニア師団を急襲した。30万人のドイツ兵が閉じ込められて分断され、1943年初めに壊滅した。スターリングラードの勝利によって、第二次世界大戦の戦局は根本的に変わった。
1943年夏、ドイツ軍はスターリングラードの戦いで失った戦争の戦略的主導権を取り戻そうとした。クルスクの突出部での激戦には双方約400万人の兵士、13000両以上の戦車と自走砲、12000機の戦闘機が参加した。
ドイツ軍は両側からの打撃を加えることで、クルスクの突出部で赤軍を包囲して壊滅させようとしていたが、ソ連軍の粘り強く激しい抵抗に遭った。「これはまさに悪夢の地獄だった」と戦車兵のウラジーミル・トルスチコフはプロホロフカ近郊の戦車戦を回想している。「我々は砲撃ができないほどの距離までファシストの戦車に接近し、車外に出て、大槌やナイフ、拳銃などを手当たり次第に使って白兵戦を行った。この激しい戦いでも神は私を憐れんだ」。
大損害を被ったドイツ軍は数十キロメートルしか動けなかった。攻撃をやめた彼らは、すぐに防戦に回らざるを得なかった。「ツィタデレ作戦が終わると、東部戦線の主導権は完全にソ連側に移った」とエーリッヒ・フォン・シュタイン陸軍元帥は指摘している。
赤軍の圧力に押されたドイツ軍はドニエプル川まで後退した。ドニエプル川には強力な防衛線、パンター線(または東部堡塁)が通っていた。ソビエト司令部の課題は、この重要な戦略的な境界上にドイツ軍を立てこもらせないことだった。
ドニエプル川の戦いには双方から最大400万人の兵士が参加した。川岸に到着したソビエト軍の師団と連隊は一般命令を待たず、直ちに渡河を開始した。「ソビエト軍の頑強さ、勇敢さ、英雄的な戦いぶり、あらゆる階級の指揮官や上官の作戦遂行技術の高さが、渡河と右岸の前哨基地の占領の輝かしい成功を可能にした」と当時ステップ戦線で指揮を執っていたイワン・コーネフ元帥は回想している。「前線の軍は激戦の中で、占領したすべての前哨基地を維持しただけでなく、これらを拡大して戦略基地に変えることに成功した」。
結局のところこうした前哨基地の数はさほど多くなかったが、これらは1944年の右岸ウクライナ解放作戦において重要な役割を果たした。パンター線の一体性が崩れたことで、第三帝国はソ連領内で長期戦を行う機会を完全に失った。
1944年夏、赤軍はソ連の電撃戦が何たるかをドイツ軍に見せつけた。6月23日、ベラルーシで大規模なバグラチオン作戦が始まり、総勢150万人以上のソビエト軍と80万人の中央軍集団が戦った。
ソ連の4つの戦線での連携の取れた攻撃、航空隊と砲兵隊の適切な活用、戦車軍団と戦車師団の巧みな使用の結果、敵の強力な防衛線は破られた。2ヶ月の戦闘で赤軍は600キロメートル西進し、ベラルーシとポーランドの一部を解放、ワルシャワと東プロイセンへの接近路に達した。「あなた方の軍の攻撃の勢いは驚嘆すべきものだ」と米国大統領フランクリン・ルーズベルトは1944年7月21日にスターリンに宛てて書いている。
中央軍集団の死者、負傷者、行方不明者、投降者は約50万人に上り、軍集団は完全に壊滅した。しかし敵の防衛線を破る戦いで赤軍も高い代償を払った。178000人が死亡、587000人が負傷した。
1945年春、第三帝国の命運はほとんど尽きていたが、それでもドイツ軍は首都防衛に80万~100万の兵を集結させた。敵の牙城に突入しようとしていた赤軍兵は200万人余りだった。
ドイツ軍の深い梯形の防衛線を破り、無数の反撃を跳ね返しながら、ソビエト軍は4月25日、ベルリンを包囲した。「ベルリンの戦いの特徴は激しい市街戦だった」と第301歩兵師団にいたウラジーミル・アントーノフは回想している。「我々は、歩兵小隊があらゆる火器の援護を得て建物の地下室や窓、扉を攻撃するのを見た。各地下室、各階、各建物、各地区をめぐって戦闘が行われた。皆が最上階の窓や屋上に赤旗が現れるのを待ちわびていた。赤旗が立てば、建物は我々のものだということだ」。
包囲された守備隊は5月2日に降伏した。武器を置くことを望まずに西側に抜け出そうとした個別の部隊は殲滅され、瓦解した。ベルリンの戦いで赤軍は8万人以上の戦死者を出した。
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