ソ連の人々は独ソ戦の勝利の瞬間をどう迎えたか

大祖国戦争の終戦日。モスクワ、赤の広場、1945年5月9日

大祖国戦争の終戦日。モスクワ、赤の広場、1945年5月9日

Mikhail Ozerskiy/Sputnik
 大半のソビエト市民にとって、戦争での敗北が死を意味することは明らかだった。そのため、待望の勝利は救いであり、新しい生活の始まりを告げるものだった。

 1945年5月9日午前2時10分、ソ連のラジオが国民に向けて待望の嬉しいニュースを伝えた。ベルリン郊外のカールスホルストでドイツが無条件降伏文書に調印したのだ。

戦勝!ベルリンにて

 この有名なニュースを伝えた全ソラジオのアナウンサー、ユーリー・レヴィタンはこう回想する。「例外的に午前4時まで放送することを晩に何度か予告していた。この一見平凡な情報を、どうか寝ずに待ってほしいということが人々に伝わるように読み上げた。間もなく電話が殺到した。知り合いも、そうでない人も、すでに幸せを声ににじませて受話器に叫んだ。『ありがとう! 察した! ご馳走の準備をするよ! よくやった!』」。

レニングラード大学の学生たち、1945年5月9日

 その夜、大国は眠らなかった。人々は窓を開け、隣人を起こし、至る所で音楽を鳴らし、「勝った! 勝った!」と喜びの声を上げた。「皆外に出た。抱き合い、泣き、笑った。周囲は浮かれた雰囲気だった」とヤーセン・ザスールスキーは回想する

戦勝記念日

 人々は兵士や将校を見かけてはすぐに胴上げするのだった。「見知らぬ人々が互いにキスをしていた。1945年5月9日ほど人々が団結した日は記憶にない。私たちは皆一つになった。ロシア人もタタール人もウズベク人もジョージア人もかつてないほど結束していた」とモスクワに暮らすゲンナージー・ツィピンは話す

赤の広場で戦勝記念日の祝い

 当時首都に暮らしていたリュドミラ・スルコワはこう振り返る。「群衆が川のように通りを進む。そこに横町からの支流が合流する。皆中心部を目指す。兵士を乗せたトラックもそこへ向かおうとする。兵士らはかがんで手の届く人にキスをする。車に『ベロモル』[タバコの銘柄]の箱が投げ込まれ、酒瓶が差し出される。苦難、希望、絶望、損失――4年間溜まったものすべてがどっと外に溢れ出し、何倍にも増して皆を包み込んだ。あり得ないことに思われるが、皆が互いを理解し、心を近付けた」。

レニングラードの参謀本部のアーチの下に行進するデモ参加者

  「窓は開け放たれ、そこから歌と明かりが漏れていた。レーニンスカヤ通りはサーチライトの光で溢れ、どの山にも高射砲大隊がいた。あちこちで発砲しているようだった」と極東ウラジオストクのヴャチェスラフ・イグナチェンコはこの記念すべき日を振り返る。祝いのムードが最高潮に達したのは、金角湾に気球で勝利の旗が上げられた時だった。「最寄りの山から空に向けて、金角湾上空で一点に交わるようにサーチライトの眩しい光が向けられた。そしてその一点の中に勝利の旗がはためいていた! これは信じられないものだった。天からのメッセージだ。上空には風が吹いており、旗は街に向かってそのまばゆい赤の布地をいっぱいに広げた」。

モスクワのマネージ広場、1945年5月9日

 赤軍兵士の多くは戦闘中にドイツの降伏を知った。バルト海艦隊の海軍歩兵パーヴェル・クリモフは1945年5月にラトビア西部にいた。そこではまだ敵の大軍が粘っていた。「戦争の終わりを告げたのはドイツ軍の方だった。我々は岸に沿って進んでいた。なぜドイツ軍の塹壕から歓喜の騒ぎが聞こえてくるのか分からなかった。どうやら、彼らは終戦を知ったらしかった。我々は花火と号砲で終戦を知った。その後、無線で作戦中止の指示を受けた。喜びは大きかった」とパーヴェル・フョードロヴィチは述懐する

モスクワのマヤコフスキー広場で戦勝記念日の祝い

 晩、モスクワの赤の広場で壮大な祝砲が鳴らされた。千門の大砲から30回の一斉射撃がなされ、160台のサーチライトの光が交差し、さまざまな色のミサイルが放たれた。ヤーセン・ザスールスキーは回想している。「なぜか記憶に残っているのは、一斉射撃にカラスの群れが怯えていたことだ。祝砲が始まると鳥たちは騒ぎながらクレムリンの壁を飛び立ち、空中を旋回していた。我々と一緒に喜んでいるように。このすべてが素晴らしかった!」。

戦勝記念日の祝砲、モスクワ、1945年5月9日

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