ロシア語のアルファベットに関する5つの興味深い事実

Kira Lisitskaya (Photo: Nina Sviridova/Sputnik; Public domain)
 ピョートル1世(大帝、1672~1725年)がいかにロシア語のアルファベット(キリル文字)を「衣替え」したか。「Я」(ya)が最後に置かれたのはいつか。そして、キリル文字が、ほぼラテン文字風になった経緯は?これらについて、この記事で説明している。

1.現代のアルファベットはまだ「81歳」

 我々が今日知っているロシア語のアルファベットは、1942年から存在している。このとき、文字「ё」は、正式に文字「e」のバリエーションではなくなった。つまり、別個の文字ということになり、それぞれ「ё」あるいは「e」と明記するようになった。ところが、その後間もなく、「ё」を「ё」と書いても「e」と書いても、どちらを選んでもよくなった。もっとも、法的文書では「ё」のみを使うことが義務付けられているが。 

2.かつてロシアでは数字は文字で表記されていた

 18世紀初頭のピョートル1世による改革以前は、ロシア語のアルファベットは、単語を書くだけでなく、数字を表すためにも使われていた。その際に、数字を表す文字と、それ以外の文字とを区別するために、特別な記号が使われた。「ティトロ」(титло)と呼ばれる波線だ。

3. ピョートル1世がアルファベットを欧風に「衣替え」

 ピョートル1世の治世中、科学と教育は活発に発展しており、そのために大量の本を印刷する必要があった。そこで、1708年に皇帝は、ロシア語アルファベットの最初の改革を行った。彼は文字の不要な装飾的要素を取り除き、書体をラテン文字に近づけ、旧来のアルファベットの一部(「ѯ」〈クシ〉、「ѡ」〈オメガ〉、「Ѱ」〈プシ〉)を完全に除いた。

 これがいわゆる「世俗文字」または「アムステルダム書体」だ。アムステルダムで鋳造されたことから、この呼び名がある。

 世俗の書籍は、この新しい書体に切り替えられた(ただし、教会での礼拝に関する書物は伝統に忠実であり続けた)。また、我々が馴染んでいるアラビア数字への移行もこのときだ。

世俗の書籍、1707年

4.最大の変更をもたらしたのはボリシェヴィキ政権

 ロシア語アルファベットの最後の本格的な改革は、1918年に行われた。このときに、「я」(ヤー)がアルファベットの最後の文字になった。また、次の文字も除かれた――すなわち、「Ѳ」(フィター)、「Ѵ」(イージツァ)、「І」(「10のイ」と呼ばれる。古代教会スラヴ語で10の数値をもっていたからだ)。 

  この改革は、1904年から準備されており、その対象となったのはアルファベットの文字だけではなかった。たとえば、「онѣ」(彼ら、それら)、「однѣ」(一つ)などの単語では、文字「ѣ」(ヤーチ)の代わりに、今や「и」を書かなければならなくなった。また、いわゆる「硬音符」の「ъ」は、発音を区切る機能だけが残され、単語の末尾に置く規則は廃止された。

5.キリル文字は…すんでのところでラテン文字になるところだった

 キリル文字からラテン文字に移行しようという構想は、教育人民委員(教育大臣)のアナトリー・ルナチャルスキーによって支持された。彼はロシア語のアルファベットを「革命前のロシアの遺物」と考えていた。その具体的な立案は、1929年から言語学者のニコライ・ヤコブレフによって行われた。彼は、ソ連の、書き言葉をもたぬ民族のために、独自のアルファベットを考案したり、イスラム教徒のアルファベットのラテン文字化を主導したりした。

 だが、結局、プロジェクトは放棄された。スターリンは、ロシア語の積極的な普及に賛成していた

労働者と兵士の間で扇動活動を行う教育人民委員のアナトリー・ルナチャルスキ

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