ロシアにおけるバナナ栽培は、早くも18世紀半ばに試みられていた。1754年、ピョートル・シュワロフ伯爵の所有するサンクトペテルブルクの温室に、ヨーロッパからバナナの苗木がもたらされた。翌年には2.5㍍まで成長し、いくつかの果実も実った。
ほどなくして、この珍しい植物は皇帝の庭園にも植えられ、女帝エリザヴェータ・ペトロヴナの食卓にも供された。貴族たちは皇帝に倣ってバナナの栽培を始めたが、うまくいかず、果実は得られなかった。その後100年にわたり、バナナは貴族にとってさえ珍しい物であり続けた。
「パイナップルとバナナ」絵画の複製。 イリヤ・マシュコフ、国立トレチャコフ美術館、 1938年
Sputnik19世紀半ばに作家のイワン・ゴンチャロフ(1852~54年にプチャーチンの外交使節の一員として日本を訪れた、あのゴンチャロフである)が旅の途中、マデイラ諸島で珍しい果物を見たという記録が残っている。
それがバナナと知ったゴンチャロフは是非食べてみたいと願ったが、落胆する結果となった。その時の感想を、彼は『フリゲート艦パルラダ号』に書いている:
「食べてみたが、私は気に入らなかった。味気なく、部分的に甘いが、ぱっとしない甘ったるさがあり、ジャガイモのようでもメロンのようでもある粉っぽい風味があり、メロンほどは甘くなく、香りは無いか、あっても独特の粗っぽい香りがあるだけだ。果物というよりはむしろ野菜で、果物の中ではparvenu(成り上がり)である」。
ヤルタのニキツキー庭園。
MAMM/MDFそれでも20世紀初頭になると、バナナはペテルブルクの一般市民にも手の届く品になった。アメリカやヨーロッパから、冷蔵庫付きの蒸気船で大量に輸入されるようになったのである。従って価格も手頃になり、ペテルブルクのレストランではバナナを様々に提供する試みが行われた。例えば、「バナナ・ポンチ」といったメニューが登場した。
革命と世界大戦を経たソビエトの市民は、エキゾチックなバナナどころではなかった。しかし第二次大戦後には、中国やベトナムから輸入されるようになった。ベトナムのバナナは、ソ連からの財政援助や軍需物資と引き換えにソ連にもたらされた。未熟な緑色の状態で輸送され、黄色みを帯びるまで保管された。
バナナはスターリンの大好物の1つでもあった。バナナは側近にも届けられた他、優秀な模範的労働者にも褒賞として与えられた。
ギニアからのバナナを食べる少年たち、1961~1964 年。
Sigismund Kropivnitsky/ MAMM/ MDF1960年代末になると、ベトナム戦争、そして中国との関係悪化に伴い、アジア地域からのバナナの輸入は途絶えた。ブレジネフ時代の1970~80年代はギニア、エクアドル、コロンビアから輸入された。かつてほど高価ではなくなったものの、それでも依然として珍しい果物であり、モスクワやペテルブルクではバナナを求めて大行列ができた。
人工バナナを持つ、映画「Starik Khottabych」の英雄、 1956年
Gennady Kazansky/Lenfilmペレストロイカ以前に外国産の果物は輸入関税を免除されるようになり、更なる価格低下を招いて、市場に行き渡るようになった。現在、バナナはロシアのどこでも当たり前に購入できる。
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