2年後の1908年、シチューキンは、モスクワの邸宅用に、数枚の絵画を注文し、その設置を画家みずから監督するよう招いた。出発の少し前に、画家はそれらを、パリの「サロン・ドートンヌ」(「秋季展」の意味)で発表した。ヌードの人物が描かれた「音楽」と「ダンス」は、酷評を浴びた。しかし、シチューキンは、最初は当惑したものの、マティスを支持し、「戦わずして戦場を離れるわけにはいかない」と、彼に手紙を書いた。
1911年10月、マティスはロシアに着いた。画家は、クレムリンやトレチャコフ美術館を訪れ、オペラを見物し、象徴派の詩人ワレリー・ブリュソフとアンドレイ・ベールイに会った。後者は、このフランス人のモスクワ滞在を、簡単明瞭に要約した。
「シャンパンを飲み、チョウザメを食べ、イコン(聖像画)を称賛する。が、パリ風のものは嫌っている」
イコンはマティスにとって真の発見となった。それらを見て、彼は感激のあまり、眠れなくなるほどだった。
「私は、すでに14世紀にロシアの画家たちが見出していたものを、10年もかけて探し求めた。あなた方は、我々のところへ学びに来る必要などない。我々のほうが、あなた方のもとで学ばねばならない」。
そして、こう強調した。
「ロシア人は、自分たちが大変な芸術の宝をもっているとは、夢にも思わないのだ」
マティスは、雨がちな天気については不満だったが、モスクワの豪勢な暮らしぶりを賞賛した。
「ここでは、晩から朝まで宴会騒ぎをしている」。
そして、この街自体については、こう語った。
「独自の顔と姿をもっており、プリミティブだが極めて美しく、ちょっとワイルドでさえある」
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