レールモントフの「詩人の死」の手書き
ロシア国立文学芸術アーカイブレールモントフは、子供の頃から絵を描き、楽器を演奏し、詩を書いた。詩作は、19世紀の貴族の教育に組み込まれていた。しかし、レールモントフには真の才能があることが明らかとなる。
彼の詩は、プーシキンの死後に広く知られるようになった。ロシアを代表する詩人の決闘と死は、その熱烈な崇拝者だったレールモントフに衝撃を与えた。そして彼は、「詩人の死」という激烈な詩でこれに応え、事件を社会の在り方に帰した。その詩は大きな波紋を呼んだ。
ミハイル・レールモントフ。 ムツヘタ近郊、グルジア(ジョージア)軍道の風景、1837年
Soviet Russia publishing house, 1987「詩人の死」を書いたせいで、レールモントフはカフカスに追放され、そこで竜騎兵連隊に配属された。軍隊勤務中に、彼はカフカスに再三来ている(レールモントフは、近衛士官学校を卒業した職業軍人だった)。そして、カフカスは、彼のいくつもの作品に影響を及ぼしている。
カフカスの山岳は、叙事詩「ムツィリ」をはじめ多くの詩に、インスピレーションを与えた。また、小説『現代の英雄』の主な舞台もカフカスだ。そして、詩人はここで亡くなっている。
さらに、こんなエピソードもある。グルジア(ジョージア)でレールモントフは、地元の美女に言い寄ったが、彼女は彼に頼みごとをした――以前の愛人の死体を家から運び出すことを。これが真実かどうかは不明だ。我々はこれについてレールモントフの言葉しか知らず、他に確証はない。これは彼が友人宛ての手紙に書いたことだ。ちなみに、彼は大の冗談好きとして知られている。
スコットランドにルーツを持つレールモントフ
Natalia Mikhaylenkoレールモントフ家は、13世紀のスコットランドの吟遊詩人、トーマス・レールモント(Thomas Learmonth)に遡る。17世紀初頭、ポーランドのロシア介入に参加していたゲオルグ・レールモント中尉が、ロシア軍に捕らえられた。歴史家たちは、彼が血沸き肉躍る体験を求めていた冒険家だったと考えている。そして、捕虜になったことは、彼にとって新たな人生を切り開く千載一遇の機会となった。彼は、ロマノフ朝初代ツァーリ、ミハイル・フョードロヴィチに仕官した。
コンスタンチン・ルダコフ。ミハイル・レルモントフの肖像、1940年
Fine Art Images/Heritage Images/Getty Imagesレールモントフの先祖、トーマス・レールモントは、スコットランドで預言者とみなされていた。その子孫であるロシアの詩人にも、多くのエピソードや信じ難い風説がまとわりついている。最も有名なのは、彼の生涯(1814~1841年)をめぐる「数秘術」に関連したものだ。彼の誕生からちょうど100年後に、第一次世界大戦が始まり、彼の死から100年後に、ソ連は第二次世界大戦に突入した。
詩人の言葉は、常に預言的であり真実であると、しばしば考えられてきた。たとえば、「ロシアに過去はない。現在と未来のみがある」。
また、こんな辛辣な詩がある。
「さらば、汚れたるロシアよ、
奴隷の国よ、地主の国よ、
また、青い制服(*秘密警察の制服)どもよ、
また、彼らに従順なる民衆よ」
詩「ボロジノ」にはこんな一節もある。
「そうさ、わしらの時代には人間がいたんだ」
今の連中とは出来が違うよ。
勇士ってのは、お前たちみたいなのじゃないんだ!」
レールモントフの生涯の多くは、プーシキンのそれを再現している。追放、ロマンチックな詩、決闘…。レールモントフの最後の決闘は、ニコライ・マルトゥイノフが相手だが、彼はしばらく、プーシキンに致命傷を負わせたダンテスと同じ連隊にいた。
同時代人たちの回想によると、レールモントフは傲岸不遜な性格だった。そして、社交界においてさえも、人々に悪辣な冗談を飛ばすのを好んだ。
事実上、レールモントフは、相手が決闘を申し込まざるを得ないように追い込んだ。伝えられるところによると、詩人自身は空中に向けて先に発砲したが、侮辱されたマルトゥイノフは、相手の胸を撃ったという。レールモントフは、27歳の誕生日の3か月前に亡くなった。
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