将来の画家は幼少期と青年期をサンクトペテルブルクで過ごした。 夏に、彼と彼の家族はイズヴァラの領地に行き、地元の古墳の発掘に参加したり、古墳に関する伝説を研究したりした。そこで彼はスラブ部族同士の敵対を描いた絵画『使者。部族が部族に対して蜂起した』を含む最初の作品を構想し始めた。この絵によりニコライ・レーリヒ(ニコライ・リョーリフ)は帝国芸術アカデミーの芸術家の称号を獲得し、収集家のパーヴェル・トレチャコフはこの絵を自分のギャラリーのために購入した。
帝国芸術アカデミーの卒業生であるアルヒープ・クインジの生徒だったレーリヒは、1900年の秋にパリに行き、フェルナン・コルモンのスタジオで連続講義を受講した。フランスの巨匠は『海外からの訪問者』という絵のスケッチの最初の鑑賞者になった。その数年前、レーリヒはノヴゴロドの交易路に沿って旅をし、昔ヴァリャーグの船がそこを航行していた様子を想像していた。
1903年レーリヒはテニシェワ侯爵夫人の邸宅を訪れ、そこで母屋の内部を装飾するはずだった。しかし、レーリヒは聖霊教会に大きな感銘を受け、数年後に壁画の制作を始めた。彼はヴャチェスラフ・テニシェフ侯爵の墓の壁に、善と悪を内包し、天使によって守られている宇宙の礎を描いた『天使の宝物』を描いたと考えられている。この作品は彼に国際的な知名度をもたらした。この絵はパリ、ロンドン、ウィーンで展示され、10年以上ニューヨークのレーリヒ美術館に保管されていた。
20世紀初頭、演劇作品の舞台美術や衣装の制作において、彼の才能の別の側面が現れた。1909年、レーリヒは有名な興行師セルゲイ・ディアギレフから「ロシアの季節」の公演のデザイナーとして招聘された。
オペラ「イーゴリ公」において、レーリヒは夕暮れのポロヴェツ陣営の風景をいくつか描き、衣装を作成した。公演の最初の観客は、ボロディンの音楽に合わせた歌と舞踊の組曲「ポロヴェツ人の踊り」を鑑賞した。ディアギレフの選択は間違っていなかった。ヨーロッパの大衆は文字通り、この作品に夢中になり、1920年までに500回もの公演が行われた。
そして「ポロヴェツ人の踊り」の背景画はこの3年前にトレチャコフ美術館が購入したもので、その後この背景画はそのコレクションの中で最大の作品となる。カンバスサイズ:10×23㍍。
1923年、妻のエレナと息子のユーリーと一緒に、レーリヒは中央アジアへ旅行に行った。インド、中国、アルタイとシベリア、チベット、モンゴル。これらの国々の文化を知る旅は5年間続いた。
その過程で彼は、未来の仏陀の到来と、人類の幸福のために人々がアシュラムで共に働く平和な時代の始まりを絵画で思索したシリーズ『弥勒菩薩』を含む、約500点の絵画を制作した。
チベットへの旅行が画家にインスピレーションを与え、印象的な山岳風景を描いた一連の絵画を制作した。
1927年末、レーリヒはチベットで最も高い山系の1つであるタングラ山脈を目にした。そこにシャンバラ(時輪タントラで説かれる理想の仏教国)があると考えられている。
1935年にレーリヒはインドに定住した。彼は1000枚以上の絵画と2冊の本を書き、彼の作品は世界の大きなギャラリーで展示され、パリに彼の個人美術館が開設された... 芸術家は祖国に戻る許可が出るのを待たずに1947年12月15日に亡くなった。
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