ロシアと旧ソ連諸国で、アーラ・プガチョワの名を知らぬ者はいない。日本でも、「百万本のバラ」の歌手として知られている。彼女の歌は、ポップスに興味の無い人の心をも揺さぶる。そんなソ連、ロシアの最大のビッグスターについて、少し詳しく知ってみよう。
アーラ・プガチョワは1949年モスクワ生まれ。絶対音感があり、5歳からピアノを習った。しかし、学校の一般教科にはあまり関心が無く、音楽に全力を注いでいたこともあって、多くの科目で成績不良だった。8年生を修了した後、彼女は音楽学校へ進学。翌年には学生たちとともに初の国内ツアーに挑んだ。このツアー中にプガチョワは作曲家たちの目に留まり、歌の収録を提案された。そして、ラジオで歌声が流れたことで、彼女はスターダムにのし上がっていく。
1986年にチェルヌブイリ原発事故が発生すると、プガチョワは処理作業従事者の慰問のために現地に赴いた最初のアーティストとなった。ある曲を歌っている最中、プガチョワは本来の歌詞に続けて「なぜ原発を爆発させた?」と歌い、ソ連共産党を批判した。
こうした予測不能でスキャンダラスな行動が多かったこともあり、ソ連政府はプガチョワに不信を抱き、その言動を批判もした。それでも、プガチョワは文化発展への貢献をたびたび国家から表彰されており、ロシアの人民芸術家と功労芸術家の称号を与えられている。
プガチョワのレコード売上枚数は、実に2億5千万枚。ソ連時代から多くの国で公演も行っており、外国で出たアルバムもある。そうしたアルバムの1つが、英語版の「Watch Out!」だ。あのABBAのバックコーラスとともに収録したもので、1985年にストックホルムで発売された。
プガチョワは女優業も試みている。伝記映画を含む数本に出演したが、ヒット作には恵まれていない。唯一、ミュージカル映画『The Woman Who Sings(歌う女性)』だけは、評論家から好評を得た。この映画でプガチョワは栄誉ある賞を受賞し、獲得した賞金は国際児童保健センターに寄付した。
ステージと映画に活躍するかたわら、プガチョワはビジネスにも挑戦した(香水や靴を製造した)。自分の名を冠したラジオ局を開設し、毎時、彼女の歌が流れた。芸術学校や、ティーン向けのステージ・スクールも開設している。
ポップス界の多くの歌姫たちと同様、プガチョワも1990年代半ば以降は、たびたびラスト・コンサートを開催している。しかし、彼女は必ずカムバックするとファンは信じ、事実、その通りになった。ラストツアーも何回かあった。それでもプガチョワは社交界に登場し続け、司会者やゲストとしてTV出演も続けた。2019年4月の自身の70歳記念には、クレムリン宮殿で豪華なコンサートも開催。チケットは1週間で早々に完売した。
プガチョワが初めてたばこを吸ったのは、まだ学校に通っていた頃。人気歌手になってからも、なかなかたばこを手放せなかった。禁煙に成功したのは比較的最近のことで、50年続いた喫煙習慣を止めるのは相当に大変だったと、彼女自身が語っている。
また、食習慣の改善で20キロ前後の減量にも成功。そのため、75歳を迎えた今でもスタイルは申し分ない。塩とパンの摂取を止め、定期的に断食の日を設けているという。
プガチョワの最初の結婚は20歳の時。サーカス芸人のミハイル・オルバカスとの結婚では、娘のクリスチーナをもうけた。クリスチーナも歌手として有名になった。
28歳の時に2度目の結婚、さらにその3年後に再婚。そして1994年、18歳も年下のポップス界の新星フィリップ・キルコロフとの結婚を発表して、世間の度肝を抜いた。2人の結婚生活は11年と、それまでの結婚よりも長く続いた。離婚後も、良好な関係を保っているという。
2011年、プガチョワは5回目の花嫁となった。お相手は、若手のお笑い芸人でTV司会者のマクシム・ガルキン。歌姫より実に27歳も年下である。2年後には代理母出産により、エリザヴェータとガリーの双子に恵まれた。
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