「極北はその陰鬱ながらも力強くて神秘的な自然と、果てしない氷とほとんど明けることのない夜で、わたしを常に魅了した」。アレクサンドル・ボリソフは、著書「酷寒と死の国で」こう書いている。幼年時代から彼は極北に憧れていたが、北方への愛によって、自分が画家になるなどとは思ってもいなかった。
ボリソフはロシア北方、ヴォログダ近くの貧しい農家に生まれた。彼の生まれた村には学校すらなかった。絵画というものも知らず、見たことがあるのはイコン(聖像画)だけであった。ただ画家が地元の教会をスケッチにきたとき、ボリソフは初めて、壁に絵具で描かれたフレスコ画というものを目にした。ボリソフはそのとき見たものに圧倒され、文字通り、絵画に夢中になった。彼は児童書を探し出し、その本に挿絵を描くようになった。
18歳になったとき、ボリソフは母親とともにソロヴェツキー修道院に巡礼に行ったのだが、そこから帰らなかった。ボリソフは予めすべて計画を立てていて、最初から戻るつもりがなかったのである。彼は修道院付属のイコン画の学校に入ることを希望していた。そして入学が認められ、そこからボリソフの画家としての道が始まった。素晴らしい成果を出したボリソフは、半年後にペテルブルクに移り住み、1895年、ロシア帝国でもっとも権威ある絵画学校である絵画アカデミーに入学した。ボリソフはそこで、ロシアの有名な画家、イワン・シーシキンやアルヒープ・クインジなどに師事した。
首都で暮らし、首都で学ぶ機会を得たボリソフであったが、彼の北方への愛情は変わらなかった。彼は厳しい北方で育ったが、彼にとってその地は熟知した人物のように感じられた。そして彼は、まだ人間が足を踏み入れたことのない北の地域に惹かれるようになった。
そこで1896年、ボリソフは初めて、極北を訪れ、ノーヴァヤ・ゼムリャ諸島に出かけた。このときの旅行の中で描かれた作品が有名な蒐集家のパヴェル・トレチャコフの目に留まった。モスクワのトレチャコフ美術館の創設者は、彼がこの旅行中に製作したすべての作品を買い取ったのである。
アカデミーを卒業した後、ボリソフは定期的に北方を訪れるようになり、1897年、ノーヴァヤ・ゼムリャ諸島で独自の調査を行った。そのために彼はアルハンゲリスク造船所に「ミチター(夢)」という船の建造を依頼し、必要なものを運ぶための輸送船をいくつか借り、メンバーに動物学者、化学者、作業員などを加えた。ボリソフはのちに、この探検で、人々にまだ人が足を踏み入れたことのない、地球の遠く離れた場所を紹介し、神秘的な世界の本当の姿を伝えるため、できるだけ多くの作品を描こうと考えていたと明かしている。
メンバーたちはノーヴァヤ・ゼムリャに家を建て、冬を越せるようにし、さらに遠く、極北へと向かった。調査隊はカラ海の島を調査し、さらに可能な限り、北に進もうと計画していた。しかし、全て計画通りとはいかなかった。
調査はもう少しで、メンバー全員の死亡で終わるところだった。「ミチター」は氷に阻まれ、船を置きざりにするしかなかった。そしてメンバーたちは何日も氷の上を歩いて移動しなければならなかったのである。まず持ち物と食料を犬ぞりで運んだが、氷が薄くなったところで、犬はすべての貨物と共に薄氷域で命を落とした。
その後、調査隊員たちがいた氷も割れ、メンバーたちを引き裂いた。引き離されたメンバーたちは、流れによってさらに遠くに押しやられたが、奇跡的にまた一緒になった。この時にはすでに皆、生き延びる希望を失っていたが、ボリソフは家族のいるメンバーを救おうと決意した。彼は家族のある者に唯一のボートを与え、ノーヴァヤ・ゼムリャまで自力で行くよう指示した。壊れた船では全員を救うことはできないだろうと考えたのである。しかし仲間はこれを拒否し、皆一緒に進むことにした。
この恐ろしい探検について、ボリソフはのちに「進まなければならないのだが、足が動かないのにどうやって進めばいいのだ。座って、雪と顔を突き合わせ、誰とも話したくもなく、互いに目を合わせたくもない。皆がただ死ぬことだけを考えていた。夜、眠りにつくとき、もう再び日の出を見ることはないと思っていた」と綴っている。しかしそんな状況に、彼は誰よりも苦しんでいた。というのも彼は調査隊長であり、自分のせいだと強く感じていたからである。しかし、同時に責任感が彼に大きな力を与えた。
救いは彼が待っていたのとは別の場所から現れた。ボリソフはネネツ人たちのユルタを見つけた。そしてそれが氷上での死からメンバーたちを救ったのである。
ボリソフのその後の調査はネネツ人との友情のおかげもあって、より穏やかに行われた。地元の長はボリソフに、命の危険を感じることなく、ネネツ人の村を障壁なく旅できるようにと通行証のようなメモを渡した。しかし、もうその紙は必要なかった。地元の人々は彼をすぐに仲間として迎えたのである。ボリソフは地元の人々と同じように、雪の穴の中で眠り、トナカイの血を飲み、生肉を食べ、狩猟に出かけた。ネネツ人との生活の印象について、ボリソフは、「サモエド人のいるところ、ピネガからカラ海まで」の中で綴っている。ボリソフはそこでの生活にすっかり慣れ、ネネツ人は彼らにとって聖なる場所にまで誘った。そして彼はワイガチ島にあるネネツ人の偶像を訪れた最初の旅行家となったのである。
20世紀初頭、ボリソフはヨーロッパに行き、そこで個展を何度か開いた。展覧会では、自身の絵画だけでなく、調査で撮影した写真も展示した。展覧会はドイツ、オーストリア、チェコ、そして1906年にはパリでも開かれた。のちに展覧会はイギリス、アメリカでも大成功を収め、アメリカではセオドア・ルーズベルト大統領とも会見した。
革命の後、ボリシェヴィキが政権に就いたあと、ボリソフは工房を失った。ソ連で大きな影響力を持っていた画家で文化委員会のメンバーであったイーゴリ・グラバリとの関係が悪化したためだと言われている。トレチャコフ美術館のボリソフの展示室も閉鎖された。
1990年代になって、ようやくボリソフの作品が再び、公開されるようになった。現在彼の作品はトレチャコフ美術館、そして2001年に博物館となったクラスノボルスク(アルハンゲリスク州)のボリソフの屋敷に展示されている。
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