白地に藍色の「グジェリ」:ロシア伝統の陶器について知っておくべきすべて

Valentin Rozanov
 「グジェリ」は、白地に藍色が美しい、ロシア伝統の陶器だ。ロシアのどの土産物店でも買える200ルーブル(約400円弱)前後の、工場で大量生産されたものもあれば、署名入りで、コレクターの垂涎の的の作品もある。このロシアの美術工芸品の歴史と種類を調べてみよう。

 「マヨリカ焼き」の一種である「グジェリ」の古来の技に従って制作する陶芸家は 、5 人足らずだ。彼らの作品は、グジェリについての通念とはほとんど似ていない。それは 5 色で、版画の「ルボーク」風の彩色が施されている。

 「展示会を開く際にこれらの陶芸家とどのように交渉するのか、あなたには到底想像できないだろう」。ワレンチン・ローザノフさんは笑う。彼は、グジェリの代表的な陶芸家の1人だ。

 「『何か展示会に作品を出してくれよ』と私が頼むと、相手はこう言うんだ。

 『私は、向こう何年も注文が入っているんだ。いくつかはまだ作ってないし、作ったものは売れちゃったよ』」

 マヨリカ焼きのグジェリには、複雑な製造技術が必要だ。マヨリカ焼きのグジェリのほかに、ファイアンス焼きとセミ・ファイアンス焼き(*ファイアンス焼きは、繊細な淡黄色の土の上に錫釉をかけた陶磁器で、1000℃以上の温度となる窯が必要)、磁器のグジェリも、過去数世紀にわたって並行して開発されてきた。それらは、工場や家内制手工房で生産されている。グジェリの美術工芸家として認められた、独立した陶芸家もおり、その数は約10名だ。

 「これらの陶芸家は、ロシア歴史博物館に独自のセクションを持っている。これはもはや工芸品ではなく芸術だ」。ワレンチン・ローザノフさんは述べる。

 こうした名匠は、粘土の選別から絵付け、釉薬、焼成まで、創作の全工程を一人でこなす。

 「職人は、 たとえば、2 か月間、水差しの制作に取り組んだ末、焼成中にひびが入り、すべてを最初からやり直す羽目になることもある。こういう個人制作の陶器が失敗する可能性は約5割にもなり、したがって、技術と工程は複雑だ。粘土の質が悪いこともある」。ローザノフは語る。

 この工芸品は、素朴なありふれた陶器から出発して、最高にロシア的な様式の 1 つとして認知されるに至るまで、どのような道をたどったのだろうか?

博物館の展示品、ワレンチン・ローザノフ作

陶芸集団「グジェリ」

 グジェリは、モスクワから 約60 キロメートル離れた地区の名前で、約 30 の村が含まれている。ソビエト政権が成立した1917年のロシア革命の前にはもう、この地区は、モスクワ県ブロニツキー郡グジェリ郷(ヴォーロスチ)と呼ばれていた。現在では、これらの散在する村々はまとめて「グジェリ・クスト(制作集団)」と呼ばれており、モスクワ州の一部だ。また、700 年以上にわたって粘土で有名でもある。

 グジェリ郷には、地主の土地私有や農奴制は存在せず、何百もの陶器の工房があった。今日に至るまで家族経営の工房もあれば、大工場に成長したものもある。後者には、国家が相当な優遇措置を講じている。 

 グジェリの陶芸集団の存在は、14 世紀初めから知られている。当時、モスクワ大公国への併合に関連して、この地に関する言及が初めて文書に現れた。村人たちは当時、まだ素朴で伝統的な陶器を制作していた。食器だけでなく、他の家庭用品、管、大きな壺、おもちゃも作った。

 ローザノフさんの話では、今でもグジェリの住民は、「じゃがいも畑を掘っていると」、地中から 200~300 年前の、素朴な絵が描かれたおもちゃや皿の破片を見つけるという。「ディムコヴォ村のものに似た簡単なおもちゃだ。馬、鳥型の笛、熊――これらは、ロシアの平原地帯ではどこでも見られたもので、おそらく儀式的な意味ももっていた」

 畑、菜園からは、不良品や壊れたものの破片しか見つからない。それらはかつて捨てられたものだ。食器などの家庭用品は、 20 ~ 30 点の品しか博物館は所蔵していない。

2022年の発掘風景、グジェリの工房の1つがあった場所から、17~19 世紀の陶器の破片が見つかった

 17 世紀には、グジェリの住民は、モスクワの医薬省に組み込まれていた。つまり、工房は、医薬品の容器の、国への供給業者となった。当時、薬用の瓶やフラスコは、陶器のみで作られていたからだ。

 一方、17世紀前半に、ロシア正教の「ニコンの改革」の後、旧教徒(分離派または古儀式派)は、迫害を避けて、この地域の豊かな密林と湿地帯に逃げ込んだ。ちなみに、17世紀には、分離派は、ヴォルガ沿岸の森林地帯にも逃れた。現在「ホフロマ塗り」として知られている金の彩色は、彼らととともに、ここでのみ伝わることになった。

発掘で見つかった陶器の破片

 「人は生計を立てるために、自分でできることをするものだ」と、ローザノフさんは説明する。「今では、森の半分は伐採されてしまっているが、当時は、周囲には森しかなく、隠れるのに好都合だった。そして、白色から茶色まで、数十種類の粘土が地表に露出していた。好むと好まざるとにかかわらず、粘土は技術的な目的で使われた。分離派は、共同体を創って住み、教会を建てた。彼らはいつも自分の製品を持ち歩いており、手仕事を好んだ。そのことと粘土のおかげで、グジェリは陶器の中心地になった」

五色のルボークは金の値打ち

 「グジェリ」(гжель)の語源にはさまざまな説がある。流布しているが誤った説として、「焼く」を意味する「ジェーチ」(жечь)に由来するというのがある。食器は竈で「焼く」からだと「説明」する。

 最も信憑性が高いのは、ブロニツキー地区を流れる河川「グジェルカ」(Гжелка)から来ているというもの。これは、この地区の主要な水脈だ。

20 世紀と18世紀の瓶

 また、古代スラヴ語で「グジェリ」(гжель)は、弦楽器「グースリ」(гусли)を意味する。ちなみに、グジェリ地区の近くには、「グースリツァ」(Гуслица)という場所もある。

 さらに、スラヴ語の一つであるポーランド語に由来するという説も。「gżegżółka」は、鳥のカッコウを意味し、この付近の森にはたくさんいる。

 もちろん、グジェリの最初の焼き物は、青くもなければ磁器でもなかった。初めは、単純なテラコッタ(イタリア語の「焼いた(cotta) 土(terra)」に由来)、要するに素焼きだった。子供たちは今でも、自分で素焼きを作るのが好きだ。彼らは、ロシアの暖炉(ペチカ)で、煉瓦の中に置いて焚火で、赤粘土で作った食器やおもちゃを焼く。

 粘土は、釉なしで焼くと、素焼きになり、細かい穴ができて、液体が漏れやすいので、制作者はさまざまな方法でそれを処理した。竈で焼いた直後の「焼きたて」は、まだ熱いうちに、ブリン(パンケーキ)の小麦粉のそれに似た溶液に浸した。「乳漬け」では、焼成前に食器を牛乳に浸す。

 17 世紀、オランダとその青いタイルをこよなく愛したピョートル 1 世(大帝)は、青い縁取りの食器を流行させた。そして 18 世紀には、欧州の有色のマヨリカ焼き(*イタリアの錫釉陶器でルネサンス期に発祥)が、グジェリにも影響を及ぼす。それは貴族や宮廷に盛んに買われ、その製造技術は高価で複雑だった。

 グジェリの職人たちは、制作をより単純化し改善するための手段と方法を探し始めた。その結果、「グジェリ・マヨリカ」が生まれた。五色で素朴な味わいがあり、ルボーク風の彩色がなされている。

 グジェリ・マヨリカの博物館の収蔵品は、今日まで残っている。そのなかには、把手がついて、真ん中に穴のある「クワス醸造器」がある(*クワスは、東欧の伝統的な微炭酸・微アルコール性の清涼飲料)。「この穴は、布切れに包んだ氷を差し込んでクワスを冷やすために必要だったのでは、と考える者もいる」。ローザノフさんは説明する。

 「あるいは、当時、客にご馳走を振舞うときに、いくつかのクワス醸造器を紐でつなぐために穴が必要だったと考える者もいるが、我々美術工芸家にとっては、この穴は装飾的な要素だ」

グジェリ・マヨリカのクワス醸造器、18世紀

 ローザノフさんは、グジェリの工芸品を長年研究しており、次のように結論付けた。実は、誰もこのクワス醸造器を使用しておらず、それらはもっぱらコレクション用の食器だった、と。いくつかの主だった博物館の所蔵品から、ローザノフさんは、他の研究者、学芸員らとともに、クワス醸造器の用途を突き止めようと試みた。

 「我々は、懐中電灯で中を見た。底は釉薬がかかっていなかった。釉薬がある場所には滴っているが、粘土が剥き出しのところもあり、指紋がついており、18世紀から蓄積した埃もあったが、誰もそれを洗っていなかった。そして、どこも色は明るいままだった。液体が注がれると、粘土は黒ずむはずで、それはもうどうやっても洗い流せない。だから、これらのクワス醸造器は、純粋に装飾的なもので、棚の上にただ置かれていたわけだ。それはインテリアの要(かなめ)で、皇室ロマノフ家の人々はこういったものを蒐集していた。彼らの『ロシア・コレクション』に、このクワス醸造器も含まれていて、それらは、宝のように大切にされていた」

青い不死鳥

 グジェリ・マヨリカと並行して、グジェリ製品の他の分野も開拓された。つまり、セミ・ファイアンス、ファイアンス、磁器だ。グジェリの人々は、外国の磁器の製法を探求していた。それはロシアで高く評価され、大金で購入されていたからだ。こうして、セミ・ファイアンスが生まれることになった。つまり、グジェリ独自のセラミックだ。

 これは、欧州のファイアンスより粗かったが、薄くて孔も少なかった。職人たちは、表面の装飾に非常に熱心だったため、グジェリのセミ・ファイアンスは、工芸品の中で特別な位置を占めるに至った。それから薄いファイアンスが登場した。磁器に関しては、中国と、後の欧州の磁器は、ロシアではまさに黄金の価値があった。

農民の食器、M.S. & I.E. クズネツォフ、およびY.T. ファルタリヌイの工房が制作、ファイアンス焼き、19 世紀末

 『中国人は磁器の技術を秘密にしていた。ドイツには秘密の工房さえあり、彼らはそれを『発明』しようと試みた」。ローザノフさんは語る。中国では、磁器の成分は純粋で、地中からそのまま採ってきた。つまり、カオリンと石を粉砕して混合し、磁器を作る。

 ヨーロッパ人は、自分たちの資源から材料を選び始めた。磁器がロシアに到来すると、ロシア人も製法を編み出し始める。したがって、磁器は国によって異なる。グジェリには、何百もの工場と工房があった。ある者は職人のレベルにとどまり、食器を作った。賢い者は、高価な設備を備えた磁器工場を開設した」 

 磁器を作ったせいもあり、グジェリの青色は残った。白と青の絵付けの流行は、 19 世紀に復活した。というのは、磁器は非常な高温で焼成されるので、マヨリカ焼きのよく見られる茶色、緑、オレンジ色のほとんどが色あせてしまう。しかし、青色が得られるコバルトは燃え尽きない。背景の白色は、焼成後の良質な粘土そのものによる。

 グジェリに限らず、世界の美術工芸における主要かつ最も有名なモチーフの1つは薔薇だろう。その点でグジェリの絵付けは独特だと、ローザノフさんは述べる。

 「グジェリの薔薇は、まったく独特で、三筆か四筆で一気に描かれている。そして、各陶芸家には、それぞれ独自の薔薇がある。一目で作者が分かり、それを他人が模倣することは決してない。これは、素朴なカモミール(カミツレ)ではなく、高貴で価値ある希少な花であり、常に『貴種』であろうとする。陶芸家は、ブラシの両側に染料を浸す際に、その量を微妙に加減する。そして、一筆で、陰影と深みの両方を与える。一筆で円を描いたときに、染料が微妙につくわけだ」

薔薇の描かれた皿

 残念なことに、20 世紀初めの産業革命により、手工芸品は不必要なものとして滅び始めた。工場は国有化され、工場、工房の主はいなくなった。男たちは徴兵された――グジェリの陶器を作っていたのはもっぱら男性だったのに。 

 「一般的に、20 世紀以前は、男性がすべてを担い、女性は家事をしていたそうだ」とローザノフさんは説明する。「我々の村では、男は 1 日 14 時間働いた。だから、仕事場で、男だけの集団で生活し、帰宅したのは週末や休日のみだった」

 1940年代、美学者アレクサンドル・サルティコフは、強制収容所から釈放された後、グジェリに派遣され、この美術工芸を蘇らせ始めた。彼は職人を呼び戻し、工程を復活させた。その後、モスクワで、グジェリの陶器を博物館のコレクションに含め、発掘調査も主導した。

 最も有名な陶芸家、ナタリア・ベッサラボワも、彼の指導の下で働き、二人はいっしょにグジェリの「絵付け教本」を作成した。これと並行して、彼らは、専門学校で陶芸を教え始める。そして、グジェリの磁器はもっぱら女性の仕事となった。ローザノフさんが1974 年にグジェリ工場で働き始めたとき、彼は職人中唯一の男性だった。

 現在、グジェリには、美術・民芸文化講座を備えた国立大学がある。認定を受け民芸を支えているとみなされる作品は、国から税金が免除される。大規模な展示会のための支出も、補填される。

 そして、グジェリの陶芸家たちは、美術工芸品の純粋さを求めて戦っている。

 「グジェリでは今、誰が何を作っているのか?工房はとてもたくさんある。成功した作品もあれば、粗雑なのもあるのを我々は目にしている。我々は、悪徳生産者と戦っている。彼らは、グジェリの名誉を損ない、粗悪品を市場に出している」。ローザノフさんはこう言う。グジェリの技は決して死なない、とこの美術工芸家は確信している。

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