「ロード・オブ・ザ・リング」に息づく、ロシアとスラブの系譜

ロシア・ビヨンド, wagnerm25/Getty Images, AFP, New Line Cinema
 ソ連は、モルドールではない。しかし、中つ国には何かしらロシア的(あるいはスラブ的)な要素はあるようだ。

 ジョン・R・R・トールキンの名作「ロード・オブ・ザ・リング」、その悪役であるサウロンの統べるモルドールは中つ国の東方に位置した。トールキンの考えたこの大陸、中つ国は、同作の主な舞台である。東方に位置するという地理的特徴から、冷戦時代の西側の読者の多くはモルドールをソビエト連邦の寓意であると認識していた。トールキン自身はあらゆるメタファーや政治的な引喩を好まず、そのような読解は否定していた。サウロンは当初は北方に住み、その後、身の安全のために山脈を越えて東に移住したと、トールキンは経緯を強調している。それ以上でもそれ以下でもなく、物語上の必然があったのみだ。ストーリーはすべて大昔の地球上で起きており、現在の状況とは何の関連も無いとのことだ。

モルドール

 というわけで、ソ連=モルドールではない。しかしそれでも、中つ国にはロシア的(あるいはスラブ的)な要素はある。 

くまの名は

 「ホビットの冒険」で最強のキャラクターの1人は、熊に返信できる獣人ビヨルンであろう。かの「5軍の合戦」で彼が人間・ノーム・エルフ側に味方したことは、戦闘の行方を決定づけた。熊の姿でオークとワーグ(巨狼)を蹴散らしたのだ。研究者によると、ビヨルンの造形はスカンジナビア神話とアングロサクソン叙事詩の影響だという。文学的には、ベルセルクとベオウルフがその近縁にあたる。ピーター・ジャクソンによる三部作では、スウェーデン人俳優のミカエル・パーシュブラントがビヨルンを演じた。

「ホビットの冒険」でビヨルンの役を演じるミカエル・パーシュブラント

 ビヨルンという名は、古英語で熊を意味する。しかし本の草案段階では別の名が用意されていた。その名は-Medwed。これは、ロシア語で熊を意味する語を、ローマ字表記したものである。この名は、「ホビットの冒険」の一章にも当てられていた(後にこの章は「不思議な宿り」( Queer Lodgings)と改称された)。研究者のダグラス・アンダーソン(Douglas A. Anderson)は、トールキンは友人のユニヴァーシティ・カレッジ・ロンドン英語学教授レイモンド・チェンバース(R. W. Chambers)が「ベオウルフ」に寄せたコメントから借用したと推測している。

 そのコメントの中でチェンバースは、世界のフォークロアから半獣半熊の膨大なリストを載せているが、その中にイワンコ・メドヴェトコのロシア民話もある。この民話は、国外でも知名度が高いアレクサンドル・アファナシエフの全集にも収録されている(例えば「ジョン・ウィック:チャプター2」でキアヌ・リーブスが隠し場所に、更に格闘の武器にも使ったのは、まさにこの本である)。

「ジョン・ウィック:チャプター2」で出てきたアレクサンドル・アファナシエフの本

 確かにイワンコ・メドヴェトコは、少なからずビヨルンを彷彿とさせる。パワー、機転、どう猛さ、さらに出自も似ている(いずれも、熊と女性の間の子である)。従って、トールキンがこの語を用いようとしたことも、不思議ではない。しかし公開が近くなってからトールキンは考え直し、ビヨルンが作中の設定の中で浮かないよう、古英語の名前を与えることにした。

塞翁が兎

 ビヨルンの友、「魔法使いにしては悪いやつではない」ラダガスト。鳥獣を慈しむ、奇人にして世捨て人。映画化に際しては(スコットランド出身の俳優シルヴェスター・マッコイが演じた)原作よりさらにエキセントリックなキャラクターとなり、暑い日でも毛皮をまとい、巨大な兎に引かせたソリを乗り回し、キノコを食すようになった。魔法使いのガンダルフもラダガストに好意的だが、これも不思議ではない。その親交は数百年に及ぶ。ラダガストこそ、「ロード・オブ・ザ・リング」の第1作で大鷲をつかわし、悪の魔法使いサルマンに捉えられたガンダルフを救出しているのである。

「ホビット 竜に奪われた王国」でラダガストも役を演じたシルヴェスター・マッコイ

 トールキン研究者の間では、ラダガストの名の由来については今でも論争が続いている。最も有力な説は、北ゲルマンの年代記に由来するというものである。ヘルモルド、ピストリウス、アダム・ブレメンスキー、その他多くの研究者・年代記作者によると、古代の西スラブ人は最高神ラダガスト(ラデガスト)を崇めたという。言語学者ヤーコプ・グリムは、ラデガスト神はスカンジナビアのオーディンのスラブバージョンだと主張している。また、ラデガストはニコライ・リムスキー=コルサコフのオペラ・バレエ「ムラダ」でも再三登場する。この「ムラダ」は、沿バルト・スラブ系のフォークロアに基づいており、いくつかのシーンはラデガストの神殿のふもとで展開される。

エルフはロシア語も少し話す

 トールキンは作家としてだけでなく、言語学にも造詣が深く、彼の作品は実際に存在する言語を基に新たな言語を創出するラボの如くである。彼自身、「“物語”は、これらの言語のための世界を創造するために書かれた部分が大きい。私の場合、まずは言葉が生まれ、その後、その言語に関連する物語が生まれるのだ」と語っている。トールキンは、設定の細かさに差はあれど、実に20以上の言語を創造したことになる。それらはある程度は現在ある言語を想起させるもので、その中にはロシア語も含まれる。

トールキンに作られたクウェンヤ語

 トールキンは若い頃はロシア語の習得を試みており、あまり上達しなかったと自ら認めてはいるものの、形態素的な構成と響きは強い印象を残した。Medwedの他にも、彼のメモには「Ei, Uchnem」と添え書きされたイラストもある。船曳き人夫の歌「エイ・ウフネム」(ボルガの舟歌)のイラストである。作中にはロシア語の言葉も出てくる。例えば、「ヴェリーキー(偉大な)」(エルフ語のクウェンヤでHaloisi Velikeという地名は、偉大な海の意)。あるいは、民族名のVariags(ヴァリャーグは、ロシア語でヴァイキングを指す)。また、「J. R. R. Tolkien Encyclopedia」 の著者イワン・デルジャンスキ(Ivan A. Derzhanski)は、クウェンヤ語ではロシア語の指小接尾辞-inkが多用されていることに着目した。Katinkaは、ロウソク。Patinkaは、スリッパである。

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