「イワンの馬鹿」とは何者か:ロシアの民話の代表的なトリックスター

Alexander Rou/Gorky film studio
 このキャラクターは、人生で偉大なことを成し遂げるためには、必ずしも勇敢なヒーローである必要はないことを教えてくれる。勇敢さにもまして大切なのは優しさと創意工夫だ。

 ロシア民話には、「イワンの馬鹿」という途方もなく間が抜けた男についての話がたくさんある。彼はしばしば、その箸にも棒にも掛からぬ愚かさで、とんでもないことをしでかす。しかし、それと同時に、常に窮地をうまくすり抜ける。おまけに、彼は信じ難いほどの幸運に恵まれ、金持ちになるか、王女と結婚するのだ。なぜロシアの有名無名の作者たちは、このような愚か者を主人公にしたのだろうか。そして、これらの寓話の教訓は何なのか?

「イワンの馬鹿」は何がそんなに特別なのか?

 イワンは、ロシアで最も流布した名前の一つだ。しかし実は、その起源は古代にさかのぼり、ヘブライ語の名前「Yōḥānān」(おそらく、神の名の1つであるヤハウェまたはエホバに基づく)がルーツだ。

 英語でこの名に当たるのはジョンだ(フランス語ではジャン、イタリア語ではジョバンニ)。教会スラヴ語ではイオアン(イワン)である。

アニメ「イワン王子と灰色狼」(2011)からのシーン

 イワンの非公式な短縮形(愛称)はワーニャ。そして「馬鹿」はロシア語の「durak」の訳だ。だから、物語によってはこれらがさらにくずれて、「Vanka-durak」や「Ivanushka-durachok」と呼ばれることもある。これらは、非常にソフトで優しい愛称形だ。

 イワンの馬鹿はふつう若い農民で、両親は貧しく年老いている(そして、イワンは三男坊であることが多い)。大抵の場合、この愚か者は思い切り厄介なことをしでかして、物事を台無しにする。

映画「麗しのワシリーサ」(1939)に出てくるイワン

 たとえば、両親は、彼に食べ物を買いに行かせるが、彼は、家に帰る途中で、鳥や自分の影に食わせるなどして、ぜんぶなくしてしまう。あるいはまた、テーブルを買ってくるように頼まれると、家に持ち帰る途中でこう考える――このテーブルとかいうものは、馬みたいに四本足があるから、自分で帰れるだろう、と。そして、テーブルを道端に置き去りにする…。

 このように、イワンの愚かさを示すエピソードはたくさんある。ところがその一方で、物語の土壇場で、イワンは突然幸運になり、あらゆることをうまくやってのける。2 人の兄は世間知に基づいて行動する一方で、イワンは、自分の直観を信じ、常識に反する、型破りな決断をすることがよくある。そして彼は、他者からの一見奇妙な助言に耳を傾け、魔法の世界についての言い伝えや神話的伝承を信じる。

 たとえば、人気の物語『シヴカ・ブルカ』では、イワンは、どんなことでも人を助けることができる魔法の馬「シヴカ・ブルカ」の言い伝えについて知る。広い野原へ行って、「シヴカ・ブルカ、魔法の馬よ、出てこい」と唱える。馬が駆けてきたら、右耳から這込んで、左耳から這出せば、美男子になるという。

「シヴカ・ブルカ」、ヴィクトル・ヴァスネツォフ作、1926年

 何とも変な話ではないか?2 人の兄は伝説を笑い飛ばすが、イワンはそれを試してみて、実際にうまくいく。魔法の馬の力を借りて難関に挑み、ついにお姫さまと結婚する! 

なぜ愚か者をヒーローにしたのか?

 民話はふつう、国民性を反映している。「イワンの馬鹿」は、ロシアの民衆のヒーローであり、徒手空拳ですべてを手にした、平凡で素朴な男だ。これは、ロシア人の抱く「夢」の定義に近いだろう。低い身分に生まれ、何か大きなことを成し遂げる可能性も機会もないが(そして実際に試みようともしない)、不思議な力が助けてくれるのを受け身で待っている。

 「イワンの馬鹿」は大抵、ロシア的な「アヴォーシ」(何とかなるかもしれない)に頼っている。棚ぼた式にうまくいくことを期待する気持ちだ。成功させるために何もしないし、そもそも成功する見込みもあまりない。しかし、神あるいは神秘的な力が助けてくれるのでは、という希望と信仰を漠然ともっているのだ。「アヴォーシ」とは、そういう神頼みの意味である。

 さらに言えば、通の人々にとっては、物語は信じられるものである必要がある。魔物やハンサムな王子が何か偉大なことをやってのけるなどというお話は、あまりピンと来ないだろう。

映画「イワンの馬鹿がいかに奇跡を追った」(1977)の主人公イワン

 ロシア民話は、ソビエト当局の大歓迎するところとなった。ロシア革命の指導者ウラジーミル・レーニンの定義によれば、民話や魔法のおとぎ話は、主に「民衆の願望と期待」を表している。だから、不当に抑圧された登場人物(末っ子やシンデレラのような義理の娘など)は、社会の最下層から出た新しいヒーローになった。教育を受けた裕福な男を尻目に、素朴な農民が見事に目的を達する。これこそは、ソ連のプロパガンダの完璧な筋書きだった。

 そのため、ソ連時代には、「イワンの馬鹿」が出てくる映画やアニメーションが多数製作された。『おバカなイワーヌシカの不思議の旅』、『麗しのワシリーサ』、『せむしの仔馬』などだ。

末っ子現象

 前に述べたように、イワンはしばしば三男坊であり、頭が良くてもう大人になっている兄たちとは対照的だ。兄たちは既に一本立ちしていて、イワンの主な「敵」であることが多い。兄たちは、弟の愚かさにやたらと苛立ち、殴ったりする。そして、幸運を手に入れた「馬鹿」に嫉妬し、激怒する。いくつかの物語では、兄たちは、弟の宝物を手に入れるために彼を殺そうとさえするが、逆に見事にしてやられる。

アニメ「イワンの馬鹿について」(2004)からのシーン

 実際、こうした筋書きは、農家の末っ子の実際の状況を反映している。通常、兄たちは実家を離れて、自分の家を建てて独立するが、末っ子は両親といっしょに家にいて、彼らを助ける(ふつう、両親は既に年老いている)。こうして末っ子とその妻は、両親が亡くなるまで同居して、その家を相続する(これがまたしばしば兄たちに妬まれるわけだ)。

 「主人公が受ける不当な迫害のモチーフは、歴史的プロセスを反映している。原始的な共同体システム、家父長制、氏族制が崩壊し他のシステムに移行していく過程だ」。民俗学者エレアザール・メレチンスキーは、著書『魔法物語の英雄』に書いている

 「それは、ささやかな家族の不和の形で、例えば兄が弟を裏切る形で、大家族制の崩壊を描いている」

ロシア文化における「聖なる愚者」の伝統

 イワンは、神秘的な力と奇妙な関係にある。彼は、何事にも心を開いており、彼だけが異界とも交流できる。現実の中でこれに似た事柄を探すと、「聖なる愚者」(ユロージヴイ)と呼ばれるロシアの文化現象がかつてあった。これは通常、放浪無宿の修道士であり、非常に禁欲的な生活を貫き、大抵は裸足で襤褸をまとって歩いていた。

 彼らは多くの場合、故意に「キリストのために」愚かさを装った。まるで本当の愚か者のように振る舞ったため、他の誰も敢えて口にしなかったような、ありとあらゆる苦い真実を公言できた。こうした「愚者」は「祝福された者」であり、ほぼ聖人とみなされた(そして、ツァーリでさえ、彼らの言葉を予言と認識して傾聴することがあった)。

 だから、ロシア正教会の伝統では、愚か者に寛容であり、彼らを助け、養い、衣服を与えることが一般的に行われていた。

イワン皇子とイワンの馬鹿の違いは何か?

 「ロシアの不思議なおとぎ話の主人公は、3 人兄弟の末っ子だ。それは、イワンの馬鹿、農民の息子、またはイワン皇子(イワン・ツァレーヴィチ)だ。イワン皇子は、英雄叙事詩的なタイプのおとぎ話に出てくる」。メレチンスキーはこう述べている。

 だから、ロシアのおとぎ話には、イワンの馬鹿の他に、もう1人の有名なイワン、つまりイワン皇子がいたわけだ。

「灰色の狼に乗ったイワン王子」ヴィクトル・ヴァスネツォフ作、1889年

 同じ名前をもち、同様の役を演じるにもかかわらず、イワン皇子は別のキャラクターであり、強く勇敢で美しい青年で、大抵は邪悪な力(妖怪の「不死身のコシチェイ」など)から王女を救うために、長く困難な旅に出る。

 イワン皇子は、狼に乗ったり、魔法の「火の鳥」を捕まえたり、いろんな動物に、その難しい試練を乗り越えるのを助けてもらったりする。最後に、主人公は、美しい王女を救い出し、その心をつかむ。

 イワン皇子は、その名の通り皇子であり、ツァーリの息子だが、スポイルされていない親切な青年であることが多い(王位継承権は持たずに育った)。この点だけでも、イワンの馬鹿のほうが一般的なロシア人に近いように見える。「Vanka-durak」は、ごくナイーヴで無教養な農夫の代名詞となった。しかし彼は、人間らしい人間であり、誠実で、神と不可思議な力を信じている。

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