モスクワのエルフたち:ソ連とロシアのトールキンファンについての5つの事実

Kira Lisitskaya (Legion Media; Peter Jackson/New Line Cinema,2001)
 9月にJ.R.R.トールキンの小説『指輪物語』とその追補編を基に製作された「力の指輪」というドラマシリーズの放映が始まった。ロシアでは、ソ連の「雪解け時代」から、トールキンとその作品は人々の間で愛されてきた。

トールキンの最初の翻訳は地下出版で広まった 

 1960年代には、トールキンの栄光はソ連にまで広がった。トールキンの本は当時は珍しかった外国旅行に行った人々が持ち帰り、それらが「手から手へと」、英語を知る人々の間に広まった。

 トールキンを初めて読んだ人々の中には、後に伝説的なロックバンド「アクアリウム」のリーダーとなったレニングラードのミュージシャン、ボリス・グレベンシコフがいた。他でもない小説「ロード・オブ・ザ・リング」がきっかけで、グレベンシコフはファンタジー小説の大ファンとなり、またこの作品は、グレベンシコフの初期の楽曲にも大きな影響を与えた。アルバム「三角形」の裏には、バンドの名前が、トールキンが発明した2種類のエルフ語でTengwarとCirthと書かれている。

 「ロード・オブ・ザ・リング」のロシア語翻訳は、素人の翻訳者によって広まった。原稿はタイプライターで打たれて複製され、その後、独自に製本された。小説の全文または一部の翻訳は少なくとも8つある。もっとも広く読まれ、もっともオリジナルに近いものがペルミの言語学者アレクサンドル・グルズベルグ(1976年)の翻訳である。

「ホビット」

 モスクワの出版社「児童文学」から、子ども向けに簡略化された「ロード・オブ・ザ・リング」の1巻目が出版されたのは1982年になってからである。翻訳は、アンドレイ・キスチャコフスキーとウラジーミル・ムラヴィヨフが行い、ファンタジー小説をおとぎ話に近い形にした。何年にもわたってこの本は若い読者たちを夢中にさせ、実在しない「続編」を求める子どもたちを書店や図書館に向かわせた。この小説が完全に翻訳されて出版されたのは実に次世紀になってからであった。

最初にソ連で作られたファン・フィクは「ロード・オブ・ザ・リング」とスタニスワフ・レムの小説のクロスオーバーだった

 「ロード・オブ・ザ・リング」(1966)の最初の翻訳の一つはファン・フィクだったと言ってよい。ジナイーダ・ボブィリは文章を大幅にカットしながら、新たなエピソードや「銀の王冠」など新たなものを加えた。あるバージョンでは、SF的な要素を加え、ポーランドの作家スタニスワフ・レムの「アダム」の登場人物の話を取り入れている。

 ストーリーとしては、未来の学者たちが、考古学調査の途中で、「一つの指輪」を発見し、機器を使ってその歴史を知り、調査の中で、そこで起きていることを科学的に説明しようする。

 言い換えれば、トールキンを基にした最初のファン・フィクは、レムのファン・フィクだったということである。こうした試みはボブィリが意識的に行ったものである。それは翻訳の出版をより簡単にするためであった。というのも当時、ソ連ではSFが大人気で、ファンタジーというジャンルはまったく知られていなかったからである。

 最終的に、最初のボブィリのバージョン(SF的でないもの)は、トールキンを含めそのジャンルが人気だった1990年代の初頭に出版されただけであった。

 それに続いて、別のファン・フィクが出版された。とりわけ、ニック・ペルモフが書いた「ロード・オブ・ザ・リング」の非公式の続編となる3巻から成る「闇の指輪」も出版された。トールキンの真似から始めたペルモフは後に自身の作風を作り出し、ロシアでもっとも人気のファンタジー小説家の一人となった。

ソ連ではトールキン作品の映画が二つ作られた。著作権所有者はその事実は知らなかった

 中編小説「ホビット」はおとぎ話に近い内容であったことから、ソ連ではより幸運な運命を辿った。最初の翻訳は1976年に出版され、その3年後、レニングラード若い観客の劇場で、「素晴らしいビルボ・バギンスのバラード」が上演された。この作品はほぼ10年にわたってレパートリーに組み込まれ、テレビ放映のための撮影も行われた。ソ連では、外国人作家の著作権が無視されることはよくあることで、このときも、著作権所有者に上演の許可を得ることはなかった。

 1985年、レニングラード・テレビで、「おとぎ話の後のおとぎ話」の映画化シリーズのために、1時間ものの映画「ホビット」が撮影された。それは、「ミスター・ビルボ・バギンスのおとぎ話のような旅」というテレビ演劇であった。これは事実上、小説の舞台化しようとするもう一つの試みであったが、撮影所で、カメラの前で上演されたのである。ストーリーは最大限に短縮され、俳優たちは、安価な衣装で、安価なメイクで演技をし、リアプロジェクションのような簡単な特殊効果が使われた。

 同じレニングラードテレビで撮影されたテレビ演劇「ロード・オブ・ザ・リング」(1991)も同じような作品となった。作曲とナレーターは、ロック・バンド「アクアリウム」の結成メンバーの一人、アンドレイ・「デューシャ」・ロマノフが行った。このテープは長いこと、失われたものだと思われていたが2021年にYouTubeにアップされた。

 オンラインでの初公開は世界のメディアに注目された。アメリカの出版社ヴァラエティは、撮影についての大規模な記事を掲載した。

トールキンファンの最初のロールプレイングゲームはソ連崩壊の1年前である1990年に登場した

 1980年代の末、すでにソ連では数えきれないほどのトールキンファンによるサブカルチャーが作られた。その中核となっていたのは、ファンタジーファンクラブ、シンガーソングライタークラブ、そしてソ連で最初のロールプレイングゲームファンのクラブなど、さまざまな方向性を持つ若者グループのメンバー、そしてヒッピーたちであった。

 1990年、シベリアのクラスノヤルスク近郊で、トールキンの作品をモチーフにした最初の大規模なロールプレイングゲーム大会が開かれた。後にこれは毎年開かれるようになる。

 1990年代にモスクワでは、ニスクーチヌィ公園の陽だまりがトールキンファンたちの集まりのお決まりの場所となった。この場所は、中つ国の最初のエルフの王国の名前「エグラドール」と呼ばれるようになった。

毎週木曜日になると、若者たちは、カーテンで作ったコートを着て、道路標識で作った盾を持ち、ここに集まった。後になると、さまざまな格好をした、ときに酒を飲んだ人々が来るようになり、こうした集会の評判を落とした。

ロシアではトールキンへの愛はまだ消えておらず、熱心なファンたちはジョークの対象になった

 トールキンファンたちに新たな刺激を与えたのが、ピーター・ジャクソンの「ロード・オブ・ザ・リング」の映画化であった。2002年の全ロシア国勢調査のデータによれば、およそ60万人がエルフやホビットなどの空想の国籍の名前を付けられていた。エルフのコートを着て、髪を伸ばしている人がいただけでなく、2000年代の新聞には、首を「伸ばす」整形手術についての記事が掲載されていた。

 熱狂的なトールキンファンのカリカチュア的イメージは、コメディ映画「Суперменеджер, или Мотыга судьбы(スーパーマネージャー、あるいは運命の鍬)」(2011)の中に登場する。

 トールキンファンのすべてがロールプレイングをするわけではない。トールキンの世界をモチーフにした小説を書いたり、詩を書いたり、歌を書いたりする者もおり、中にはプロと言えるようなレベルの者もいる。たとえば、2017年、モスクワの地下鉄で、「シルマリルの物語」を基にしたエルフ語のオペラの初演が行われた。初演ではロシア大統領オーケストラが参加した。

オペラ「シルマリルの物語」

 またトールキンのモチーフは、ロック歌手、ヘラヴィサ(フォークバンド「メリニツァ」のリーダー)のソロ作品やメタルバンド「エピデミア」の曲の中でも歌われている。

 トールキンファンの中には、トールキンが考えた世界を研究したり、作家自身について研究したり、未出版の作品を翻訳する人などもいる。学術会議やセミナーも開かれ、論文やモノグラフも書かれている。

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