クロヒノの廃墟化した降誕教会:いかに「水上の奇跡」となったか

 建築史家・写真家のウィリアム・ブルムフィールドは、ロシア北部のクロヒノにある一部水没した降誕教会を写真に撮り、今の外観とセルゲイ・プロクディン=ゴルスキーが 20 世紀初めに撮影したカラー写真とを比べてみた。

クロヒノ(ヴォログダ州ベロゼルスク地区)。降誕教会。シェクスナ川の水中にある。教会の南西側。クルーズ船から撮影。1991年8月8日。

 20世紀初め、ロシアの化学者・写真家のセルゲイ・プロクディン=ゴルスキーは、解像度の高い鮮やかなカラー写真を撮る複雑な技術を開発した。彼は、ロシア帝国の多様性を記録するために、この新しい方法を用いることを思い立ち、1917 年に皇帝ニコライ 2 世が退位するまでの 10 年間に、数多くの史跡を撮影した。

 クロヒノ。降誕教会。教会の北東側で門も見える。小運河はシェクスナ川に通じる。1909年夏。

 1909 年、プロクディン=ゴルスキーは、サンクトペテルブルクとヴォルガ川流域を結ぶ「マリインスク運河」(現在は「ヴォルガ・バルト水路」として知られる)を旅した。この水路沿いに、ヴォログダ州のベロエ湖(「白い湖」の意味)がある。湖の南東部分は、ヴォルガ川の支流であるシェクスナ川に流れ込んでいる。

 毎年、観光クルーズ船が、モスクワ・サンクトペテルブルク間のこの水路を航行し、有名な「波の上の鐘楼」を通り過ぎる。この鐘楼はもともと、トヴェリ州カリャジン市の聖ニコライ大聖堂の一部だった。

カリャジン。聖ニコライ大聖堂の鐘楼。大聖堂は、ウグリチ貯水池(ヴォルガ川の一部をなす)の建設中に取り壊されたが、鐘楼は標識として残されていた。1991年8月9日。

 鐘楼は1800 年に建立された。ニコロ・ジャベンスキー修道院(旧称)の、17 世紀後半に建てられた主要な教会の付属するものとしてだ。この新古典主義による5層の鐘楼は、破壊、水没を免れて、標識として使うために保存された。それは、カリャジン旧市街の大半がウグリチ貯水池に沈んだときのことだ。貯水池は、1939年に、水力発電所とヴォルガ河川交通の増加のために建設された。カリャジンの鐘楼は定期的に補強されており、現在は観光客や巡礼者に開放されている。

 同じ水路のさらに北には、同様にドラマチックな建築の至宝がある。一部が水没した降誕教会で、クロヒノの旧村にある(ロシアでは、多くの降誕教会が聖母マリアの降誕を記念している)。

  クロヒノ。降誕教会。教会の西側。主要構造の前に鐘楼と入口がある。1991年8月8日。

 降誕教会は、シェクスナ川左岸のキリロフ市付近にあったが、教会周辺の村とともに、シェクスナ貯水池の水に飲み込まれた。この貯水池は、第二次世界大戦後、水力発電プロジェクトのために、川を堰き止めて造られた。

 幸いにして、プロクディン=ゴルスキーは、1909 年夏の旅行中にクロヒノの教会を撮影していた。当時、教会は小村の堅固な地面の上に立っており、川の波をかぶってはいなかった。

 私は、廃墟となった教会の写真を撮った。1991 年 8 月とその16 年後の 2007 年 7 月に、クルーズ船のデッキから撮影したものだ(クルーズ船は、時刻表によっては、日中にこの場所を通過しないことがある)。

クロヒノ。降誕教会。教会の南西側。1991年8月8日。

 クロヒノについての最初の言及は、この近くの聖キリル・ベロゼルスキー修道院の記録にあり、 1426 年にまで遡る。考古学的調査によれば、この村は、ベロオーゼロの古代集落と関係があるらしい。それは、この集落が西方へ、今日のベロゼルスクの場所に移る以前のことだ。19 世紀初頭以来、数十年間、クロヒノはマリインスク運河(現在のヴォルガ・バルト水路)沿いの河川工事で栄えた。 

クロヒノ。降誕教会。 教会の南西側。2007年7月14日。

 降誕教会は、1788 年~1820 年の長期間にわたって段階的に建設されたようだ。その設計は、立方体風の主要な構造に、鐘楼が西端に(船の船首のように)に取り付けられている。

クロヒノ。降誕教会。教会の南側。入口と鐘楼が主要構造から伸びている。1991年8月8日。

 1 階にはキリストの降誕に捧げられた主要な祭壇があり、後に追加された2つの祭壇は、ペテロとパウロを記念している。さらに、西側の食堂の延長にある祭壇は、聖ニコライを記念。教会の上部は、19 世紀初めに、1820 年に成聖(聖別)されており、そこには、キリストの復活の祭壇があった。

クロヒノ。降誕教会。教会の東側。後陣(アプス)のアウトラインが見える。1991年8月8日。

 降誕教会には、単純化されたバロック様式が反映している。バロック様式は、サンクトペテルブルクやモスクワよりも地方でずっと長く続いた。というのは、これらの主要都市では、早くも 1760 年代には、教会の設計は、エカチェリーナ大帝( 2 世)が好んだ新古典主義様式に倣い始めていたからだ。

クロヒノ。降誕教会。後陣(アプス)のある教会東側(主要なイコノスタシスを含む)。1909年夏。

 主な構造は、球根形の屋根を支える八面体、八角形の「ランタン塔」、および単一のドームだ。興味深いことだが、おそらく、そのランタン(屋根の上部の構造物を指す建築用語)が教会を取り壊しから救ったのだろう。

クロヒノ。降誕教会。教会の南東側。2007年7月14日。

 1953 年に地方自治体は、シェクスナ貯水池の水路の計画がすでに始動していたときに、交通標識として信号灯(つまり文字通りの意味での「ランタン」だ)を教会に設置することに決めた。1970 年代初めに機能を停止した信号灯は、シェクスナ川がベロエ湖から流れ出る地点を示していた。

クロヒノ。降誕教会。教会の南側。主要構造の西側と北側壁の一部のみが残っている。南東側の角は崩壊寸前だ。2007年7月14日。

 プロクディン=ゴルスキーの印象的な写真には、多くの興味深いディテールが写っている。この写真は、北東方向から撮影したものだ。前景には、小さな運河に架かる花崗岩の堤防と板橋が見える。この運河はシェクスナ川に通じる(写真の左側にあるので見えない)。橋に係留された小さなボートと、門にあるより小さな緑色のボートは、川から教会へのアクセスできたことを示している。

 門は3つの部分からなり、それぞれが、少し斜めに傾いた十字架を戴いている。中央のアーチには、昇天の壁画の痕跡が見える。門は、鉄柵につながっており、それは教会の敷地を囲んでいる。

クロヒノ。降誕教会。教会の南東側。東側の壁に後陣の跡が見える。1991年8月8日。

 プロクディン=ゴルスキーは、多角形の後陣(アプス。常に東側にある)に焦点を当てている。後陣は、下層階と上層階の主要な祭壇を含んでいた。後陣の端は、いずれの階でも枠付きのフレスコ画で飾られている。下の絵はキリスト降誕を表し、上の絵は復活を描いており、それぞれの祭壇に対応している。

クロヒノ。降誕教会。教会の南東側。 2007年7月14日。

 プロクディン=ゴルスキーの写真には、「月並みな」ディテールも見える。後陣の上と下の右側から伸びる排気管だ。それぞれの管は、小さな薪ストーブに接続されており、長くて寒いしかも湿気の多い冬季に、後陣を暖めた。このような 2 階建ての教会では、通常、冬季は下の階(暖房が効きやすい部分)だけで礼拝が行われた。

クロヒノ。降誕教会。 教会の南東側。1991年8月8日。

 1991 年 8 月の私の写真では、後陣はすでに崩壊しているが、その輪郭は東の壁に見えている。この写真からは、下層階と上層階の区分もはっきり分かる。16 年後の 2007 年 7 月に撮った写真では、屋根とドームが崩壊し、悲惨なことに、主要な建物の東半分のほとんどがレンガの山と化したことが分かった。南東の角は、2007 年にまだ立っていたが、危険な傾斜があった(後に崩壊した)。

クロヒノ。降誕教会。教会の東側。2007年7月14日。

 過去数年間、有志たちが、教会の跡を保存しようと努力してきた。その取り組みには、基礎部分を守るための小さな堤防を建造する計画も含まれている。とはいえ、構造修復の資金集めは容易ではない。プロクディン=ゴルスキーの写真は、徐々に水没していく教会の往時の姿を記録した点でなおさら価値がある。 

シェクスナ川。クロヒノ付近に嵐を呼ぶ黒雲が近づく。1991年8月8日。

 20世紀初め、ロシアの写真家のセルゲイ・プロクディン=ゴルスキーは、カラー写真を撮る複雑な技術を開発した。彼は、1903年から1916年にかけてロシア帝国を旅し、この技術を使って、2千枚以上の写真を撮った。その技術は、ガラス板に3回露光させるプロセスを含む。プロクディン=ゴルスキーが1944年にパリで死去すると、彼の相続人は、コレクションをアメリカ議会図書館に売却した。21世紀初めに、同図書館はコレクションを電子化し、世界の人々が自由に利用できるようにした。1986年、建築史家で写真家のウィリアム・ブルムフィールドは、米議会図書館で初めてプロクディン=ゴルスキーの写真の展示会を行った。

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