生神女進堂祭記念オプチナ原野修道院(コゼリスク市近郊)。北西の眺め。ウィリアム・ブルムフィールド撮影。2014年8月23日。
William Brumfield20世紀初め、ロシアの化学者で写真家のセルゲイ・プロクディン=ゴルスキーは、色彩鮮やかで解像度の高いカラー写真を撮る複雑な技術を開発した(下の囲みを参照)。プロクディン=ゴルスキーは、写真について、教育と啓蒙の一形態という考えをもっており、それは、ロシアの中心部の史跡、建築の写真でとくにはっきりと示された。
1908年5月、ロシアの化学者で写真家のセルゲイ・プロクディン=ゴルスキーは、その最も有名な写真の一つを撮影した。ヤースナヤ・ポリャーナの邸宅における作家レフ・トルストイ(1828~1910年)のカラー写真だ。これは、プロクディン=ゴルスキーがこの文豪の80歳の誕生日を前に撮ったいくつかの写真の一つである。
ヤースナヤ・ポリャーナ。書斎におけるレフ・トルストイ。オリジナルのガラス・ネガからのモノクロ・コンタクトプリント(ネガは保存されず)。セルゲイ・プロクディン=ゴルスキー撮影。1908年5月23日。
Sergey Prokudin-Gorskyプロクディン=ゴルスキーにとっては、他の多くのロシア人と同じく、トルストイはロシア帝国の試練の時における正義の「発信源」だった。トゥーラ市の南西(モスクワから180 キロメートル)に位置するヤースナヤ・ポリャーナは、当時、すべての階層のロシア人と外国人観光客にとって「巡礼地」となっていた。
トルストイの創作と多岐にわたる活動は、世界中の数千万の読者、信奉者にさまざまな喜びと気づきを与えたが、彼の晩年は、その献身的な妻ソフィア・アンドレーエヴナ(愛称はソーニャ)との葛藤と対立の時期でもあった。
生神女進堂祭記念オプチナ原野修道院。聖なる門。南の眺め。ウィリアム・ブルムフィールド撮影。2014年8月23日。
William Brumfield晩年、トルストイとソフィア夫人の葛藤はますます激しくなった。彼は、自分の社会的、道徳的見解に妻が無理解であると感じていたこともあり、亀裂はいよいよ深くなった。ソフィアは、彼を深く愛し、13人の子供(うち8人は成人した)を産み、自分の生涯を夫の仕事と幸福のために捧げてきたのだが…。
このまさに悲劇的な愛憎は、トルストイの、幾人かの身近な同志のせいで、さらに深刻になった。彼らは、作家がヤースナヤ・ポリャーナを去り、無所有の主張を実践に移すべく公の行動に出るべきだと主張したりした。
こうした同志の中で最も有名なのはウラジーミル・チェルトコフだ。彼は、トルストイの信頼を得て、その晩年の著作、見解、活動を広めるために、その組織・運営に関わる活動にたゆまず従事したが、一筋縄でいかぬ人物であり、ソフィア夫人との関係は険悪だった。
生神女進堂祭記念オプチナ原野修道院。生神女進堂祭記念聖堂。東の眺め。ウィリアム・ブルムフィールド撮影。2014年8月23日。
William Brumfieldこうした緊張状態に加えて、トルストイは、国家権力と正教会を公に激しく批判し、その特定の教義を否定した。それに対して正教会は、1901年に作家を「破門」した。彼が最晩年に教会との和解、復帰を望んでいたという意見もあるが、いずれにせよ彼は、正教会と和解せずに亡くなった。
しかし、トルストイが、知的、道徳的レベルにおいて教会につながりたいという願望を示したときもあった。作家と正教会の出会いの重要な一要素となったのが、オプチナ原野(プスティニ)修道院の生神女進堂祭教会だった(生神女進堂祭は、聖母マリアが3歳ごろ、エルサレム神殿に入ったことを記念する)。これは、もう一人の文豪フョードル・ドストエフスキーの人生においても重要な役割を果たした名高い聖地だ。
生神女進堂祭記念オプチナ原野修道院。エジプトのマリア・聖アンナ教会。南東の眺め。ウィリアム・ブルムフィールド撮影。2014年8月23日。
William Brumfield1910年10月28日(ユリウス暦)未明、トルストイは、眠れぬ夜の後、娘アレクサンドラ(サーシャ)に家出の意志を告げ(彼女は後で父に合流した)、ホームドクターのドゥシャン・マコヴィツキーと二人で、ヤースナヤ・ポリャーナを後にした。見つかることを恐れて彼らは、最寄りの鉄道駅ではなく、小駅「シチョーキノ」へわざわざ遠回りし、途中乗り換えて、そこから西方140キロメートルの、カルーガ県(現在は州)のコゼリスク駅に着いた。
サーシャとチェルトコフに電報を送った後、二人は同日、コゼリスク駅から近いオプチナ原野修道院を訪れた。
生神女進堂祭記念オプチナ原野修道院。カザンの生神女(聖母)教会。19世紀初めに建立されたこの教会は、ソ連時代に取り壊されたが、1980年代後半に再建され、さらに修道院のイコン画家により今世紀初頭に壁画が描かれた。ウィリアム・ブルムフィールド撮影。2014年8月23日。
William Brumfieldそれまでも、トルストイは、この修道院に無縁ではなかった。1877~1890年に、トルストイは、ここのアンヴローシー長老と3回会っている。アンヴローシーは、『カラマーゾフの兄弟』のゾシマ長老のモデルだと考えられている。
実際、19世紀の多くの作家や知識人が、オプチナ原野修道院の生神女進堂祭教会に引きつけられた。
生神女進堂祭記念オプチナ原野修道院。カザンの生神女(聖母)教会。北西の眺め。ウィリアム・ブルムフィールド撮影。2014年8月23日。
William Brumfield豊かなカルーガ州にあるオプチナ原野修道院は、最も崇敬を集める、ロシアの聖地の一つだ。その魅力の一つは、すばらしい自然環境で、雄大な松林に囲まれている。そして松林は、コゼリスク市(モスクワの南西約250キロメートル)付近を流れるジズドラ川を望む。
流布している伝説によると、オプチナ原野修道院という名称は、強盗オプタに由来する。彼は荒れた生活を捨てて悔い改め、修道士マカリーとなり、14世紀後半に森の中に庵を結んだ。
(「プスティニ」は、原野、荒野を意味し、森林の小さな修道院の名によく用いられた)
生神女進堂祭記念オプチナ原野修道院。 カザンの生神女(聖母)教会。内装。東側のイコノスタシスを望む。ウィリアム・ブルムフィールド撮影。2014年8月23日。
William Brumfield15世紀には、ここの僧院は、男性も女性も受け入れており、両者はそれぞれ別々の区域に住んでいたが、同じ精神的指導者によって導かれた。
しかし、この慣行は、1503年の教会会議によって禁止され、オプチナのコミュニティは、男性のみの、生神女進堂祭を記念するオプチナ原野修道院として、再編された。激動の16~17世紀はどうにか乗り越えたものの、次第に衰微し、18世紀初めにはすっかり困窮して、1720年代半ばには一時閉鎖された。
生神女進堂祭記念オプチナ原野修道院。修道院の鐘楼。南と北に回廊がある。日曜日に食堂(右側)へ向かう修道士の列。ウィリアム・ブルムフィールド撮影。2014年8月23日。
William Brumfield何世紀にもわたって、オプチナ原野修道院は、木造建築で構成されていた。1750年に、新たな主要な教会となる生神女進堂祭教会の建設作業が始まったが、修道院は著しく困窮していた。さらにその状態は、1764年のエカチェリーナ2世の勅令により悪化した。この勅令は、修道院の統廃合に関するもので、修道院の財産の没収につながった。
しかし18世紀末に、修道院とその壮麗な景観は、正教会の指導者の一人で、モスクワおよびコロムナの府主教であったプラトンの注目を引いた。彼の後援は、修道院の復活につながり、1802~06年には、巨大な鐘楼や修道院の回廊が建設された。
19世紀を通じて、他の教会、礼拝堂など、修道院の建物がつくられた。その中には、印象的な壁画や天井画が残る大きな食堂もある。
生神女進堂祭記念オプチナ原野修道院。 洗礼者ヨハネ僧院。聖なる門の上の鐘楼。南の眺め。ウィリアム・ブルムフィールド撮影。2014年8月23日。
William Brumfieldとくに重要なのは、厳しい精神修行に専念する修道院の庵(スキート)だ。洗礼者ヨハネを記念した、オプチナ原野修道院の庵「洗礼者ヨハネ僧院」は、1821年に、修道院の主要な壁の東側に、独立した敷地内に設けられた。この庵は一般公開されていないが、筆者は、2014年夏に写真撮影を許された。
今でも庵の中心となっているのは、1822年に建てられた洗礼者ヨハネ聖堂だ。庵は、赤い羽目板で覆われた、魅力的な木造建築で、新古典主義様式の柱廊玄関がアクセントになっている。他の建物には、「聖なる門」の上に聳える鐘楼、複数の小さな住居、図書館がある。図書館は、ソ連時代後期に博物館になっていた。
生神女進堂祭記念オプチナ原野修道院。 洗礼者ヨハネ僧院。アンヴローシー長老の家。ウィリアム・ブルムフィールド撮影。2014年8月23日。
William Brumfield19世紀の間に、庵は「スタレーツ(長老)」の称号を得た人の住まいとして広く知られるようになる。「長老」という概念は、1820年代に教会のヒエラルキーとして修道院にもたらされた。しかし、誰が長老となるかは、主に一般の崇敬によって決まった。それは、庵で厳しい修業と禁欲を貫き、カリスマ性と深い叡智が融合した修道士だ。正教会は、オプチナ原野修道院で長老となった修道士14人のすべてを崇めている。
生神女進堂祭記念オプチナ原野修道院。 洗礼者ヨハネ僧院。 マカリー長老の家。ウィリアム・ブルムフィールド撮影。2014年8月23日。
William Brumfieldオプチナ原野修道院の「洗礼者ヨハネ僧院」は、一般人からロシアの一流の知識人や芸術家まで、あらゆる階層の人々を引きつけた。ニコライ・ゴーゴリ、イワン・ツルゲーネフ、ピョートル・チャイコフスキー、アクサーコフ兄弟(イワンとコンスタンチン)、コンスタンチン・レオンチェフ…。これらは、修道院を訪れた芸術家や思想家のほんの一部にすぎない。
しかし、オプチナ原野修道院と言えば、二大文豪、フョードル・ドストエフスキーとレフ・トルストイの訪問が最も有名だ。両者とも精神的危機を抱いて訪れている。
トルストイは、アンヴローシー長老を1877年と1881年に訪ね、さらに1890年にも、長老の死の1年前に会っている。最晩年の長老には、トルストイの悩みは倨傲のなせるわざと思われ、それにうんざりしたようで、そのためもあってか、会見は緊張した苦しいものとなった。これらの会見は、結局、作家の精神的苦悩に解決をもたらすことはなかった。
生神女進堂祭記念オプチナ原野修道院。祝福を与える修道士。背景は、正門である聖なる門。ウィリアム・ブルムフィールド撮影。2014年8月23日。
William Brumfieldこの当時、トルストイはすでに正教会とは公然と袂を分かち、その教義と儀式の根本を批判していた。にもかかわらず、彼は、妹マリア(1830~1912年)の勧めで、1896年にオプチナ原野修道院を再訪した。マリアは1891年に、この修道院の近くにあるシャモルジノ女子修道院で修道女となっていた。
その訪問の際にトルストイは、長老イオアンと会った。イオアンの温和で寛大な精神は、作家に一時、魂の平安の「尺度」を感じさせた。
しかし、トルストイの激しい精神的探求は続いた。1910年10月28日未明に家出した彼は、医師ドゥシャン・マコヴィツキーとともに、その日の晩、オプチナ原野修道院に着いた。困難な旅の間に彼は、この修道院の長老たちについて何度か尋ねている。教会との和解を拒んだ彼だったが、苦悩のあまり、長老たちがもたらし得る知恵と慰めを模索したようだ。
ヤースナヤ・ポリャーナ。乗馬から戻ったレフ・トルストイのカラー写真。ロシア帝国技術協会会報8月号に初出。セルゲイ・プロクディン=ゴルスキー撮影。1908年5月23日。
Public domainオプチナ原野修道院で一夜を過ごした後、10月29日(ユリウス暦)朝、トルストイは巡礼者宿舎から、長老たちが住んでいた「洗礼者ヨハネ僧院」に2回近づいては、その都度、逡巡するかのように引き返している(何らかの内心の葛藤があったのかもしれない)。
多くの人がこの意外な訪問の動機を推し量っているが、正教会と和解する意思があったのか否かについては、確たる証拠がない。
こうした葛藤の後、同日29日に、トルストイとマコヴィツキーは、オプチナ原野修道院において、僧院の隣の巡礼者宿舎で一夜を過ごした後、この修道院の北方12キロメートルにあるシャモルジノ女子修道院へと向かった。上に述べた通り、トルストイは、ここで1891年に修道女となっていた妹マリアを訪ねた。
シャモルジノ女子修道院(カザンの生神女〈聖母〉・アンヴローシー修道院)。カザンの生神女(聖母)聖堂。北西を眺める。ウィリアム・ブルムフィールド撮影。2014年8月23日。
William Brumfieldシャモルジノ女子修道院は1884年に、オプチナ原野修道院の、女子の別院として創設。1901年には、正式にカザンの生神女(聖母)・アンヴローシー修道院と命名された。
お茶の商人セルゲイ・ペルロフの多大な寄進、後援により、シャモルジノ女子修道院は急速に発展し、1910年には重要な宗教的中心となった。トルストイは、ここの近くにしばらく留まることさえ考えた。
しかし、10月30日(ユリウス暦)に四女アレクサンドラ(サーシャ)がやって来ると、トルストイはまた「闘わざるを得なくなる」。サーシャが、ソフィア夫人がトルストイの居場所を知った、という知らせをもって来たからだ。その夜、作家は妻に、自分の後を追わないでほしいという手紙を書いている。
10月31日早朝、トルストイは、サーシャとマコヴィツキーとともにシャモルジノ女子修道院を去り、コゼリスク駅に戻った。そこで彼らは、南方のロストフ・ナ・ドヌ方面の汽車の三等車に乗り込んだが、疲れ果てた作家は、車内で風邪から肺炎を発症。一行は、アスターポヴォ駅で下車する。
その駅舎でトルストイは、一週間後に亡くなる。
シャモルジノ女子修道院(カザンの生神女〈聖母〉・アンヴローシー修道院)。オプチナの聖アンヴローシー教会。西を眺める。生神女進堂祭記念オプチナ原野修道院のアンヴローシー長老が、指導のためシャモルジノを訪れた際に滞在した住居。ウィリアム・ブルムフィールド撮影。2014年8月23日。
William Brumfield家出がこうした悲劇的な結末に向かう中、トルストイがオプチナ原野修道院の庵を訪ねようとして躊躇ったことは、修道士たちの直ちに知るところとなり、彼らはそれを残念がった。
ヴァルソノフィ長老は、アスターポヴォ駅までやって来て、トルストイとの会見を再三申し入れたが、作家の周辺の人々は、まったく関心をもたず、会わせなかった。
シャモルジノ女子修道院(カザンの生神女〈聖母〉・アンヴローシー修道院)。修道院に寄進したお茶商人セルゲイ・ペルロフの別荘。ウィリアム・ブルムフィールド撮影。2014年8月23日。
William Brumfieldボリシェヴィキ革命の数ヶ月後の1918年1月、オプチナ原野修道院は閉鎖された。追放、処刑、流刑が続いた。ソ連時代に、教会の美術品のほとんどが失われたか破壊された。シャモルジノ女子修道院は1923年に閉鎖され、ようやく、連邦崩壊の前年の1990年に再開している。
オプチナ原野修道院は、1987年に正教会に返還され、1988年に勤行を再開。1990年には、洗礼者ヨハネ僧院も、返還されている。こうして復興が始まり、その結果は今日、強い印象を与えずにはいない。
生神女進堂祭記念オプチナ原野修道院。北東を眺める。東の壁。右側に書庫の塔が見える。ウィリアム・ブルムフィールド撮影。2014年8月23日。
William Brumfield
*プロクディン=ゴルスキーによる帝政時代のカラー写真
20世紀初め、ロシアの写真家のセルゲイ・プロクディン=ゴルスキーは、カラー写真を撮る複雑な技術を開発した。彼は、1903年から1916年にかけてロシア帝国を旅し、この技術を使って、2千枚以上の写真を撮った。その技術は、ガラス板に3回露光させるプロセスを含む。プロクディン=ゴルスキーが1944年にパリで死去すると、彼の相続人は、コレクションをアメリカ議会図書館に売却した。21世紀初めに、同図書館はコレクションを電子化し、世界の人々が自由に利用できるようにした。1986年、建築史家で写真家のウィリアム・ブルムフィールドは、米議会図書館で初めてプロクディン=ゴルスキーの写真の展示会を行った。
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