ロシア人作家の本職は何だったか

Russia Beyond (Public Domain, ullstein bild via Getty Image, Aleksandr Less / Sputnik)
 医者、外交官、翻訳家――ロシア文学の巨匠はどんな仕事で生計を立てていたのだろうか。

1. アレクサンドル・グリボエードフ:外交官 

 18~19世紀の多くの貴族、特に首都の上流階級は、詩歌や音楽、絵画を嗜んだ。多様な芸術分野が貴族の教養の一部だった。そんなわけで、主に喜劇詩『知恵の悲しみ』の作者として知られるアレクサンドル・グリボエードフも作曲家だった。しかし彼の主な活動分野は国家の仕事で、彼は外務院で秘書として働いていた。米国へのロシア使節団に招かれたが断り、代わりにペルシアの外交使節団で長年勤めた。テヘランのロシア大使館で襲撃に遭い、悲劇的な最期を遂げた。

 

2. アレクサンドル・プーシキン:宮仕え 

 プーシキンは名門の帝国ツァールスコエ・セロー・リツェイを卒業し、外務院への就職が決まっていた。間もなく自由思想的な詩を書いた廉でロシア南部への流刑に処されたが、そこでも彼は公式に国家の仕事に就き、現地の総督の事務室で働いていた。流刑から復帰すると、プーシキンは正式にモスクワでの仕事に就いたが、彼が許されたのは歴史研究と執筆活動だけだった。彼はピョートル1世の本を書くため資料を集め、『プガチョフ反乱史』の執筆に取り組んだ。後に皇帝は彼を自分の近くに置くことを望み、詩人をペテルブルクに呼び出した。彼は宮廷で階級を与えられたが、それは彼の年齢と地位を考えればかなり低いもので、作家は憤慨した。さらに、プーシキンはもはや公文書館で働くことができなかった。しかし皇帝の決定に異議を唱えることは不可能だった。

 

3. ミハイル・レールモントフ:軍人 

 ロシアの主要なロマン派詩人は軽騎兵連隊の親衛隊で働いていた。肖像画で描かれているのも軽騎兵の制服を着た姿だ。プーシキンが決闘で命を落とした後に詩『詩人の死』を書いたことで、レールモントフは降格させられ、コーカサスに送られた(流刑期間と山岳地の風景は彼の創作活動にとってプラスに働き、詩『デーモン』や『ムツイリ』の着想を与えた。また小説『現代の英雄』のストーリーやレアリアのヒントにもなった)。ここで彼は、プーシキンと同じく決闘で命を落とした。26歳という若さだった。

 

4. アントン・チェーホフ:医者

 短編小説の巨匠はモスクワ大学医学部を卒業していた(最初の短編は学生時代に出版した)。彼はモスクワ郊外の病院で医者として働き、その後は家で患者の診察を行った。文学で大成功を収めていた時も、彼は本業をやめなかった。彼はメリホヴォという自身の屋敷に外来診療所を設け、無料で農民の診察も行った。コレラの流行とも闘い、病気の予防にも尽力した。また医学の進歩にも関心を持っていた。チェーホフが医業を辞めたのは晩年のことで、結核を患った彼はクリミアに移住した。

 

5. マクシム・ゴーリキー:雑役労働者 

 作家・劇作家になるまで、ゴーリキーは数多くの職を転々とし、その日暮らしをしていた。彼はヴォルガ川沿いとロシア南部を放浪して、荷役、雇農、カザンのパン屋の助手、アブハジアの鉄道修理工場とバクーの油田の作業員として働いた。中等教育を終えておらず大学に進めなかったゴーリキーだが、知識欲と哲学に対する関心が強く、たくさんの本を読んだ。そして人々の暮らしを観察しながら、初期の文学的試作においてその描写を始めた。短編がいくつかの出版社から出版され、彼は肉体労働をやめて記者として見聞記を書くよう提案された。以後、恒常的な収入のある公式の「仕事」を得ることを余儀なくされた多くのソビエト作家が、ゴーリキー同様に記者として働くことになる。

 

6. ミハイル・ブルガーコフ:医者 

 ロシア文学界で医者をしながら成功した作家がもう一人いる。ミハイル・ブルガーコフだ。彼は自身の医者としての仕事を『若き医師の手記』と短編『モルヒネ』などの作品で描いた。これらの作品はダニエル・ラドクリフ主演のドラマにもなった。ブルガーコフの『犬の心臓』に登場する有名キャラクター、プレオブラジェンスキー教授は、作家の伯父がモデルだという。ブルガーコフは主に伯父の影響で医者になることを決めたのだった。ブルガーコフは第一次世界大戦とロシア内戦の前線で医者として働き、個人で性病専門医の仕事もしていた。1920年代、彼はモスクワに移住し、小説と戯曲の創作に打ち込むため事実上医者を辞めた。

 

7. ボリス・パステルナーク:翻訳家 

 ソ連時代、作家になるためには作家同盟に加入し、公的な出版社に協力しなければならなかった。検閲によって多くの作品は出版されず、個々の作家の作品がすべて「禁止」されることもあった。そしていくら出版社や雑誌社を訪れても作品を出版してもらうことはできなかった。そのため多くの作家が副業として翻訳に携わらざるを得なかった。ボリス・パステルナークは数ヶ国語を知っており、シェークスピアやゲーテ、バイロン、リルケ、ヴェルレーヌ、さらに多くのグルジア人詩人の作品の名訳を生み出した。

 

8. ガイト・ガズダノフ:タクシー運転手と荷役 

 1917年の革命後、白軍の君主主義者の側にいたガズダノフは祖国を離れることを余儀なくされた。彼は人生の大半をパリで過ごし、飯の種を求めてどんな仕事も厭わず、荷役や金属仕上げ工、清掃人、ロシア語教師として働いた。宿賃を払えずに路上で寝ることもあった。彼の放浪生活とパリでの貧困生活の様子は小説『夜の道』に綴られている。文学的試作によって収入を得始めたものの、彼は夜にはタクシー運転手として働いていた。

 

9. アレクサンドル・ソルジェニーツィン:数学教師

 ソルジェニーツィンは高校時代から文学に没頭していたが、別の専門に進むことを決めてロストフ大学物理数学部を卒業した。彼は第二次世界大戦では志願して前線に行き、そこでスターリンを批判したため(レーニン思想を歪曲したという罪状で)逮捕された。彼は約8年間矯正収容所で過ごし、収容所の設計局で数学者として働いた。1953年に釈放されると、数学と物理の教師として働いたが、1962年に処女作『イワン・デニーソヴィチの一日』が出版された後、作家同盟に受け入れられた。

 

10. ヨシフ・ブロツキー:「居候」と講師

 ブロツキー一家は大戦後のレニングラードで非常に貧しい暮らしをしていた。ヨシフは8年生までで学校をやめ、家計の足しにするため工場のフライス盤工の見習いとなった。後に彼は遺体安置所で働いたり、ボイラー技士として働いたり、地質学調査団で働いたりした。基礎教育を終えていないにもかかわらず彼は博学で、たくさん読書をした。そして詩を書き始め、詩の朗読会に出たり、地下出版を行ったりした。副業で翻訳もしていた。それでも彼は公式の仕事に就かず、作家同盟にも入っていなかったため、ソ連の法律上、彼は「反社会的寄生生活」を送っているとして裁かれることになった。これには地元紙『ヴェチェルニー・レニングラード』が彼を「文学界周辺の寄生者」「居候」と呼んだことも影響した。流刑の後、影響力のある作家仲間の助けで、彼は公式に翻訳家となった。1970年代初め、KGBの圧力でブロツキーは祖国を離れざるを得なくなった。詩人は米国に移住し、そこで講師となってロシア文学と世界文学を教えた。

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