ニコライ・ネクラーソフ:「誰にロシアは住みよいか」を探し求めた詩人

ロシア・ビヨンド, ロシア美術館/Public Domain, トレチャコフ美術館/Public Domain
 詩人ニコライ・ネクラーソフ(1821~1877年)の名は、ロシアの小説家たちほどは広く知られていない。それでも、彼とその作品は、トルストイやドストエフスキーに劣らず、ロシア人を理解するうえで重要だ。

そんな住処を挙げてみよ

わたしはそんな場所は見たことがない

君のために種を蒔き、君を守る者が

すなわちロシアの農民が呻吟していないような場所があろうか? 

 これは、ニコライ・ネクラーソフの詩『大玄関わきでの黙想』の一節だ。 1917年のボリシェヴィキ革命(社会主義革命)のはるか前、19世紀半ばに、この詩人は農民の置かれた状況に心を痛めた一人だった。

 ネクラーソフは、ロシア全体が農民に支えられていることを理解していた。しかも、彼は自らの目で彼らの苦しみを見て、深く同情し、彼らの苦しい運命について多くを語った。

ロマン主義から進歩派の雑誌編集者へ

ニコライ・ネクラーソフ、1860年代

 ソ連時代の文芸批評では、ネクラーソフはいわゆる革命的民主主義の見解を堅持したとされていた。彼は、子供の頃から、地主である父親が農奴を残酷に扱っているのを目の当たりにした。そして、社会的不公正を観察し、鋭く感じとっていた。

 ネクラーソフは早くも思春期において、詩作に手を染めている。彼の父は、息子が軍人としての経歴を築くことを期待していたが、この若者はそれに従わずに、首都サンクトペテルブルクに行き、大学の文学部の聴講生となった。怒った父は、仕送りを打ち切った。そのため、ネクラーソフは、人生のあらゆる労苦を、身をもって味わうことになった。

 彼はあらゆる仕事をやった。教師、編集者その他。しかも、そのかたわら、自分の詩と散文を書いた。19歳のとき、自身の詩集『夢と響』を刊行し、批評家からも好評を得た。

 1840年代に彼は、当時の最も重要な雑誌の一つ、『祖国の記録』に職を得て、そこで権威ある批評家ヴィッサリオン・ベリンスキーと出会う。彼に助けられて、ネクラーソフは多くのロシア作家と親交を結び、出版業を成功裏に展開していく。

『ニコライ・ネクラーソフ』、ニコライ・ゲー作、1872年

 ネクラーソフは、作家たちに短編、中編を提供してくれるように頼み、これらの稿料なしの原稿により文集を編んだ。そこには、フョードル・ドストエフスキー、イワン・ツルゲーネフ、アレクサンドル・ゲルツェンら、錚々たる面々の著作が登場した。

 その後、ネクラーソフはベリンスキーと決別し、大詩人アレクサンドル・プーシキンが創刊した別の重要な雑誌『現代人』の発行者になる。彼が宰領したこの雑誌のおかげで、幾人もの文学的才能が見いだされた。トルストイとドストエフスキーの名声もまさにこの『現代人』から始まった。 

詩人と市民

『ヴォルガの舟曳き』、イリヤ・レーピン作

 ネクラーソフは、いわゆる「市民的な立場」を標榜する文学作品を好んだ。つまり、社会的に重要な問題を取り上げる作品だ。

 「目覚めよ。悪徳を大胆に打ち砕け…」、「君は詩人ではないかもしれぬ。だが市民でなければならぬ」

 詩『詩人と市民』において彼は、自分が理解する詩の意義を明らかにしている。

 彼は、自分の信念を裏切ることなく、作中でロシア民衆の苦しみを注視している。

 「ロシアの民衆はもう十二分に耐えてきた」。ネクラーソフは詩『鉄道』でこう書いている。

 「神が何を課そうともすべてに耐えるだろう」

『春、耕された大地』、アレクセイ・ヴェネツィアーノフ作

 民衆の苦しみに加えて、詩人は、女性の悲惨な状態にも大いに心を痛めていた。彼の父は、妻(つまり詩人の母)に辛く当たった。

 さらにネクラーソフは、子供の頃からロシア女性の困難な運命に気づいていた。ロシア作家の中で、彼以上にそれを痛切に感じていた者はなかっただろう。

 ネクラーソフは、詩『ロシアの女性たち』(1871年)の中で、農民の生活への彼の希望と、抑圧された女性のテーマを組み合わせている。

 この詩では、デカブリストの2人の妻の話が語られる。彼女たちは、流刑に処せられた夫を追って、ロシア全土をほぼ縦断してシベリアに至るのだが、その際に、「蹂躙され疲弊した国」の恐るべき有様を目の当たりにする。そこには、「過酷な主人と、卑屈に頭を垂れた奴隷がいる…。前者は支配することに慣れ、後者は隷属している!」

『デカブリストの乱に参加したセルゲイ・ヴォルコンスキーと妻は刑務所にて』、ニコライ・ベストゥジェブ作、1830年

 詩における市民的立場の重要性は、後に他の詩人たちが受け継いでいった。そして、「芸術至上主義」、「純粋な芸術」の詩人に飽き足らぬ「ネクラーソフ派」が現れる。

 20世紀初頭の詩人たちにおいても、ネクラーソフのモチーフと言語は見出される――象徴派の大詩人アレクサンドル・ブロークを含めて。

 ボリシェヴィキもまた、ネクラーソフを高く評価した。ソ連の建国者ウラジーミル・レーニンは彼を「ロシアの古き民主主義者」と呼び、自分の論文のエピグラフに詩人の一節を引用した。 

 ネクラーソフは、生涯の最後の10年間を、その代表作『誰にロシアは住みよいか』の執筆に費やした。1865年から1878年に亡くなるまでそれを書き、検閲に苦しみつつ、雑誌『現代人』と『祖国の記録』に、各章ごとに発表した。

幸せはどこにある?

 代表作『誰にロシアは住みよいか』は、その形式において、主人公が放浪する古代の叙事詩を彷彿とさせるほか、多くのおとぎ話的、民話的な要素もある。さらに、ネクラーソフは、普通の農民の口から語らせようとして、初めてロシア文学に民衆の「卑俗な」言葉を導入した。

 この詩にネクラーソフは、農奴制廃止についての自分の意見も反映させている。すなわち、1861年の「農奴解放令」は、むしろ農民の置かれた状況を悪化させ、土地も生活の保障も与えなかった(「解放された」農民は、土地を49年賦で買い取らなければならなかった)。その一方で、農奴解放は、地主と農村の全般的没落、衰退にもつながった、という見方だ。

 「巨大な鎖は解けたが、その一方の端が地主を、もう一方の端が農民を打った」 

 詩の筋は次のようだ。さまざまな村から来た七人の男が熱くなって議論している。題名にもなっているが、いったい誰にとってロシアは住みよいのかについてだ。皆、自分の意見をもっている。ある者は、地主は幸せに暮らしていると言う。他の者は役人だと言い、また他の者たちは、司祭、商人、貴族、皇帝を挙げる。七人は、本当に幸せな人を見つけるために、ロシア全国を旅することにした。しかし、いったい幸福とは何なのか、彼らはそれを見つけることができるのか?詩の結末は、読者を驚かせるだろう。

 この詩に関する同時代人の見解は分かれた。作家ニコライ・ゴーゴリの名作『死せる魂』になぞらえて、ロシアを捉える視野の広さ、人生の理解の深さ、提起された問題の深刻さを称賛する人もいた。

 その一方で、詩に描かれたものが非現実的だという意見もあった。さらに、農奴制を批判したくせに、その喪失を惜しむ理由が分からない、と訝る者もいた。

 後にボリシェヴィキ政権が評価したのは、まさにこの農奴制との戦いだった。ソ連時代の文芸評論家は、ネクラーソフが民衆に近づこうとし、その言葉を用いたこと、抑圧された社会階層に同情したことを高く評価した。だから、ネクラーソフ全集が編纂され、彼の詩は学校のカリキュラムに含まれていた。

 ネクラーソフとその作品は今日も研究されている。『誰にロシアは住みよいか』からはしばしば引用がなされ、格言が生まれた。

『誰にロシアは住みよいか』に基づいた芝居

 2015年には、有名な映画・舞台監督キリル・セレブレンニコフが、この詩に基づき、大規模な芝居を上演した。芝居は、この詩が時代を超えていること、そしてロシア人のある深い本質を映し出していることを示した。

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