リシツキーの高層建築がもし現実のものだったなら(写真特集)

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 空飛ぶアイロンともヴォルケンビューゲルとも呼ばれる、建築家エル・リシツキーが手がけた横型の8本の高層ビルは1920年代、モスクワの最高の地区に建てられることになっていた。

 カジミール・マレーヴィチが抽象芸術において革新的な一歩を踏み出し、非客観性芸術の新たな形式―シュプレマティズムを生み出したが、仲間であったエル・リシツキーはアヴァンギャルド思想を立体的なものとして発展させた。つまり、シュプレマティズムを建築にしたのである。

エル・リシツキー

 ソ連の技師で建築家で画家だったエル・リシツキーは、祖国よりも外国での方がはるかによく知られていた。シュプレマティズムを信奉したリシツキーは、長年にわたって学び、暮らしたヨーロッパで、バウハウスの創始者たちや構成主義に大きな影響を与えた。

 リシツキーがロシアに帰国したとき、第一次世界大戦が勃発した。それ以降、リシツキーは自らの創作を「ロシア的な素材」に向けた。1924年、モスクワにソ連初の高層ビルとなる8つの同じ建物を建てるという壮大な計画を立てた。その壮大さは、縦にではなく、横に(!)伸びる高層ビルである点にあった。

 これこそが本物の未来の建築だとリシツキーは考えていた。

もしも土地がないなら

 リシツキーの思想は本物の未来派であった。リシツキーは都会と農業の融合、そして代用エネルギー源の出現を予測した。

 また、リシツキーは、個別の建物という概念は過去のものにするべきだと考えていた。個々の建物の代わりに、自律した移動型住居(街中に点在する公共で使用する多くのコミューンのようなもの)が使われるようになり、事情に応じて、人はその住む場所を変えることができるようになるべきだと主張した。

 高層建築プロジェクトはそうした「未来に向けたプロジェクト」の一つであった。「クラシカルな」アメリカの摩天楼とそのコンセプトはリシツキーを当惑させた。「こうした建築が、街全体の作りを無視した形で、まったく無秩序に作られている。そうした建築の唯一の目的は隣のビルよりもっと高く、そしてもっと派手なものにするというものである」とリシツキーは1926年、ソ連の合理主義建築家による創作連合が出版していた雑誌「アスノフ・ニュース」(これが最初で最後の雑誌の出版であった)にこう綴った

 またその記事の中でリシツキーは、自身のプロジェクトの本質について説明している。リシツキーは2層から成る都市というアイデアを実現しようとしていた。それは、最低限の土地の上に建てられた縦長の支柱の上に、環境に害を与えない上層の建物を作るというものであった。

 「もし、地上に横長の建物を建てるのに十分な土地がなければ、必要な土地を高い場所に作ればよい。(中略)目的は最小の支柱で最大の広さを確保するということだ」とリシツキーは書いている。 

 モスクワに作られるガラスとコンクリートでできた8つの建物はソ連の省庁と政府組織のためのものとされた。リシツキーは、このビルを50㍍の高さに作ることを提案した。支柱には、エレベーターと階段を設けることが検討され、そこから直接、地下鉄または地上の交通機関の駅に降りられるようになっていた。

 しかし、この前衛的な高層ビルは結局、建てられなかった。リシツキーはこの時のことを振り返り、「我々の失敗は、まだ出来上がっていなかった技術にのめり込もうとしたことである。わたしは重力を克服する形で、基礎から離し、空中に浮かんだ建築を作ろうとしたのだ」と述べている。つまり、アイデアは時代に先んじていたのである。

 リシツキーが設計プロジェクトの中には、繊維コンビナート、ヨットクラブ、コミューン型住宅、出版社「プラウダ」などがあったが、唯一実現されたのが、モスクワのサモテーチヌィ横丁にある出版社「オゴニョーク」であった。

出版社「オゴニョーク」の建物

 しかし、建築家リシツキーはその高層建築のアイデアで人々の記憶に残っている。イラストレーターでスタジオ@ANOVISATEの創設者であるコンスタンチン・アノーヒンは建築家の設計図を調査し、このアヴァンギャルド建築がリシツキー自身が予定していた場所に建てられていたとしたらどんなふうだったかということを提示した。

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