正教会と倒された皇帝

ニコライ2世、 1913年=

ニコライ2世、 1913年=

ロシア通信
 ロシア革命から100年。ロシア正教会は、当時のできごとの記憶を守ることの大切さを強調している。主に、革命の暴力に対する非難が中心で、皇帝の退位につながった2月革命に対する正教会自体の立場など、革命の時代の他のできごとにはあまり触れていない。

 ロシア正教会の関係者の一人は最近、1917年革命を「偉大な」革命と考えることが教会にとって不可能であると話した。その後、ロシア正教会のキリル総主教は、ロシア革命を「大罪」と呼び、一連のできごとの評価を正した。

 1917年10月にボリシェヴィキが政権を奪った後で始まった内戦、レーニン主義者による好戦的な反権威主義などの革命の影響をほのめかしている。これにより、大勢の聖職者の命が犠牲となり、教会が破壊されたという。

 ところで、革命を始めたのはボリシェヴィキではない。皇帝ニコライ2世の退位を招いたのは、当時の首都ペトログラード(現サンクトペテルブルク)で2月末に起きた民衆の蜂起である。10月革命の前には、数ヶ月間の革命的騒乱、また政権の度重なる危機があった。

 キリル総主教は自身の発言の中で、皇帝の退位にのみ言及した。この時期のロシア正教会については細かいことは触れなかった――正教会が君主制を守るべく声を上げるのをやめたのが、まさしく2月革命の際であるにもかかわらず。その後、正教会は臨時政府を支持した。だが、臨時政府には国を危機から救う能力が致命的になく、その結果としてボリシェヴィキが政権に就いたとして、キリル総主教は臨時政府を正当にも批判した。

 

「いたしかたなかった」

 正教会は当時の条件で、あのように動くしかなかったという意見がある。首都ペトログラード(現サンクトペテルブルク)の革命の勝利には勢いがあった。2月26日には状況を政府がコントロールしていたように見えたが、翌日には蜂起した側の手中に収まっていた。

 また、正教会には正式に守る人もいなかった。皇帝ニコライ2世は3月2日には退位し、弟のミハイル大公にゆずった。弟は、憲法制定会議で承認された後にのみ皇位につくと声明した。

 正教会は、ピョートル大帝の改革の後、独立した機関ではなく、省のような、国家体制の一部となりながら、他の国家機関と同様の活動をしていたと、モスクワ国立大学の歴史学者フョードル・ガイダ氏はロシアNOWに話す。革命が始まった当初は、一連のできごとにそれほど注目していなかったが、革命が予想外の勝利を遂げると、宗務院は他の省庁と同様、新しい政権を承認した。「宗務院が活動の基本としていた論理は、国家の崩壊と内戦を許さないこと。これには臨時政府を承認するという一つの手段しかなかった」とガイダ氏。これができなければ、専制打倒後に政権に就いた人々からの「政治的打撃」に教会がさらされたであろう。宗務院はこの条件で、他の行動を取れなかったと、ガイダ氏は考える。

 

臨時政府の長期持続を願い

 しかし、宗務院のこのような対応に批判的な人々は、宗務院がペトログラードで起こっていることにほとんど無関心だったし、あえて皇帝を支持しなかったと主張している。ニコライ・ジェヴァホフ宗務院長官代理は「回顧録」の中で、宗務院の長である府主教に2月26日、信徒団に対して「服従しなかった場合に教会懲罰を科すという教会のわかりやすい警告」を行うよう提案した。だが宗務院は警告を行わなかった。

 宗務院の専制の保護に対する消極さだけでなく、宗務院による新政権の早期承認への批判もある。皇帝が退位した3月2日には臨時政府との関係を結んでいる。その後、宗務院は新政府に任命された次長検事を承認し、革命後の最初の会議(3月4日)で、正教会の「新しい時代」の始まりについての喜びを表明した。その後、ジェヴァホフ宗務院長官代理によれば、新しい宗務院長官は正教会の幹部の一人とともに、象徴的な皇帝の椅子を会議場から運び出したという。この運び出しには、哀れなスピーチが伴った。

 宗務院は3月9日、臨時政府を信頼するよう呼びかけた。まもなくして、特別教会委員会は祈りの書にある皇帝に関する記述を削除し、長期持続を願う「神の祝福を受けた臨時政府」に関する祈りに変えた。

 

ツァーリと正教会

 ロシア国立人文大学の歴史学者ミハイル・バプキン氏の観察によれば、教会は王権との1000年にわたる「同盟」を意図的にやめている。国家の最高権力を握るのは皇帝か最高聖職者かという何世紀もの論争を有利に解決できると見たためだ。

 このような考察から、「ロシアの君主制の打倒において聖職者が主要な役割の一つを果たした」という結論に達したという。正教会の幹部は当時の「2月以降の聖職者上層部の政治的立場」について、現代の正教会の国家機構および伝統主義に対する立場とあまり合っていないとして、沈黙している。

 ロシア正教会広報課のヴァフタンク・キプシゼ課長代理は、ロシアNOWの取材に対し、多くの点でガイダ氏の論拠を用いた。当時、ロシア帝国で正教会が置かれていた世俗的機関の一つという事実上の状態に言及しながら、正教会が独立して行動することは不可能だったと強調した。

 教会は君主制との戦いで革命家の側に積極的についたわけではないとし、正教会の立場の主な原則を説明した。「教会は国民の間の対立を深めたり、兄弟殺しとなるような分離、戦争、革命を悪化させたりするようなことを支持したことはなかった」とキプシゼ課長代理。また、「大罪」という革命についてのキリル総主教の言葉は、専制の打倒から始まる当時のすべての革命のできごとに対するものだと話した。

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