渡辺祥子さんが慰霊碑建立予定地で祈る。=マリア・レブローヴァ撮影
-お父上の渡辺良穂さんについて少し教えてください。
ノリリスク収容所は1935年、銅およびニッケルなどの非鉄金属の採掘のために創設された。同年夏にレニングラードから最初の囚人団が移送され、その半年後にはソ連全土から次々に送られるようになった。収容所が閉鎖されたのは、多くの囚人が釈放された1956年。ノリリスク収容所には50万人ほどが入った。
私がまだ小さかった頃、両親と当時日本領だった南サハリン(樺太)で暮らしていました。父は樺太庁財務課長でした。第二次世界大戦で日本が敗戦して、私は母と山口県に引きあげましたが、父は母に「何があっても強くいるんだぞ。子どもと一緒にがんばれ」と言って、サハリンに残りました。長い期間音沙汰がありませんでしたが、ソ連から本国に送還されたサカイさんという方から、父がノリリスクで死亡したことを聞きました。1950年に結核で死亡したという話もあります。
-慰霊碑を建てようと思ったのはいつですか。
2002年に私の母が亡くなった時です。自分が死んだらある箱を開けてくれと言っていたので、言われた通りに開けてみると、散骨を希望するメモが入っていました。私は父が晩年を過ごしたノリリスクでそれを行いました。そして日本に帰国してから、母が生前、慰霊碑を建てたいと言っていたことを思い出しました。
-初めてノリリスクにいらっしゃったのはいつですか。地元住民にはどのように迎えられましたか。
あれは1990年でした。母と2人で行ったのですが、初めてノリリスクに来た日本人ということで、皆さんがとても喜んでくださり、宴会に招かれ、日本やその伝統についてたくさん聞かれました。正直なところ、私の両親が非常に苦労を強いられたので、当時は私のロシアの人に対する感情はあまり良いものではありませんでした。しかしながら、なぜそのようなことが起こってしまったのかを考え、ロシアの人に非があるわけではないという結論に達しました。戦争が私たちを敵同士にし、私の両親も含め、被害者にしました。
-慰霊碑の建立は現在、どのような段階にありますか。
10月に作業完了の予定です。場所は記念施設「ノリリスクのゴルゴタ」の敷地内です。ノリリスクの収容所で死亡した数百人の日本人の慰霊碑で、「生存の権利」という日本語の題字と、「吹雪の向こうから聞こえてくる日本人抑留者の声に耳を傾け、この痛み、苦しみが二度と繰り返されることのないよう努力していきます」という日本語およびロシア語の碑文があります。灰色のコンクリートの土台に白い台架と黒い花崗岩の板が設置されます。
-現在はロシアをお好きで、ロシア語まで学ばれているということですが。
渡辺祥子さんが亡き父の記念に書いた本の表紙。 写真は渡辺一家で、祥子さんは当時2歳だった。 |
60歳になってから勉強を始めました。ロシア語はとても難しいですが、継続しています。すでに10年強になりますが、家中にロシア語の単語の書かれた紙が貼られています。チェーホフの「犬を連れた奥さん」も読んでみました。とても難しかったですが、文学の香りを感じることができました。この勉強のおかげで、ロシアが少しわかるようになりました。ロシアにはドストエフスキーやチェーホフなど、すばらしい人がとてもたくさんいます。憎しみは何も良いことをもたらしません。互いを理解しあうことで、良い結果が生まれるのだと思います。心の奥でロシアの人を信じていましたし、信じ続けています。ロシアの人の支援がなければ、慰霊碑も建てられませんでした。
現在、世界で宗教に関連する戦争や、民族の対立が起こっていますが、憎み合うのではなく、互いを許し、助け合うことが必要だと思います。慰霊碑が日本とロシアの友好のシンボルになることを祈ります。ところで、私は両親から与えられた祥子(さちこ)という名前の他に、自分をサーシャとロシア風に名乗ることもあります。どちらの名前もとても好きです。
-シベリア抑留から帰還した人と交流する機会はありましたか。シベリアのことをどのように話していましたか。
島根県の隠岐の島に抑留された人が暮らしていました。抑留中、重い病気にかかった時、一人のロシア人女性が看病してくれたおかげで、元気に帰ってこれたそうです。帰国してから毎日ロシアの方角に向かってお辞儀をし、「私の命を救ってくれてありがとう」と言っていました。普通のロシア人は優しくて、とても良い人ばかりだと思います。
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