ウラジミル・ペスリャク/タス通信撮影
軍拡競争の中核として
ソ連と、かつての反ヒトラー連合国との軍備拡張競争が始まり、それぞれの国が独自の兵器で勝者となろうとしのぎを削っていた1940年代終わりまでには、ソ連では新しい「T-54」戦車の配備が間に合わなかった。陸上大国のソ連にとって、戦車は従来から特別な意味を持っていた。新たな世界規模の対立の中で、西側への決定的な一打となりそうな、ヨーロッパの上でつるされたダモクレスの剣のごとくあるべきものだったのが、ソ連軍の戦車である。このような条件のもと、アメリカの主力戦車M48「パットンIII」とイギリスの「センチュリオン」の配備をただ傍観しているわけにはいかず、しかも、1959年のM60とその後のセンチュリオンMk.10の登場は、ソ連戦車にとって真の挑戦となった。
中戦車T-54Bをベースにした装甲車の開発作業は1957年に始まっていた。その名は「オブジェクト155」。開発時、T-54の改変時に生まれた設計ソリューションすべてが使用された。1957年の冬から1958年の春までの間に、新しい装甲車は国家試験に合格。1958年5月8日には、ソ連邦閣僚会議決定NO.493~230によって、「オブジェクト155」はT-55としてソ連軍に配備された。
T-55の特長
T-54との違いは、完成された防核システム。武器や装甲厚は同じであったが、新しい方は高さがほぼ1メートル低く、主砲は同軸機関銃とともに二平面で安定化されていた。
T-55は潜在的な敵だったセンチュリオンと現実に衝突したが、それは第三次世界大戦ではなく、アラブ諸国とイスラエルの多数の紛争においてであった。ソ連戦車は敵の戦車よりも走行性において優れていたが、兵器の効率において劣っていた。イギリスの105ミリの高弾道L7砲は、照準距離および装甲貫通によってイスラエルの戦車を優位に置き、砂漠での戦いにおいては重要性を増した。中東の戦いでは、ソ連製戦車のある特徴があらわれた。それは構成の欠点だ。いかなる装甲貫通においても、ほぼ必ず弾薬の爆発が起こった。
惨めな実戦…
「六日戦争」では、ソ連戦車とセンチュリオンの初対決があった。勝利したのはイスラエル側。イスラエルの戦車20両がビル・ラファン領域でエジプトのT-54/T-55戦車32両を撃破した。だがその後、エル・アリシュの戦いの際、ソ連戦車により有利な条件のもと、エジプト側はイスラエル第7旅団のセンチュリオンからの3攻撃に反撃し、17両を撃破した。
結果的に、イスラエルがエジプトの前線であらゆる種類の戦車122両を失った一方で、エジプトは戦車と自走砲935両のうち、撃破されたか鹵獲品として没収されたのは820両以上で、うちT-55は82両であった。シリアはゴラン高原で、T-54/T-55戦車627両を含む、1116両を失ったが、イスラエルはセンチュリオンとシャーマン250両を失っただけであった。
さらなるソ連戦車の失態があったのは1973年の第四次中東戦争の際。エジプト軍は10月14日、戦車約1200両で進撃。イスラエルはセンチュリオンとパットン750両で応戦した。これは第二次世界大戦以来最大の戦車戦となり、エジプトは264両を喪失し、イスラエルの戦車をわずか25両しか撃破できなかった。L7砲は離れた場所からエジプトの戦車に攻撃を加え、イスラエルの空軍がシナイ上空を支配した。
苦い教訓
結果的に、イスラエルの戦車兵は、L7砲がT-55の100ミリD-10T2S砲だけでなく、より完成されたT-62の115ミリU5-TS砲よりも優れていることに気づいた。また、最大傾斜におけるセンチュリオンとソ連製戦車の差によって、イスラエルは敵の戦車からの反撃が届かないところに位置しながら、敵の戦車を撃破できた。
とはいえ、イスラエルが勝利したのは技術的優位性のみならず、質の高い軍事計画と軍事行動の組織によるものであり、これはエジプト軍の長所とはなっていなかった。
ソ連は1979~1989年のアフガニスタン紛争で、T-55を使用した。当時より近代的であった戦車は西部軍団の師団に送られ、ソ連南部の国境に駐留した部隊にはすでに老朽化していたT-55とT-62が装備された。アフガニスタンで戦車を使っていたのは、自動車化狙撃旅団と空中強襲大隊を強化するために配属された小隊。重要な領域では、戦車は連絡を守っていた前哨部隊に配備された。戦車はここで、長距離・機動火器として使用された。
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