ウラジミール・ソローキン
John Foley/Opale/Leemage/East Newsどちらにもハマっていません。妻の「フェイスブック」のページからログインすることもできますが、特に必要もないので、めったにそれはやらないです。連ドラについては、「ローマ」(アメリカ、イギリス)と「ゲーム・オブ・スローンズ」(アメリカ)、あとは忘れてしまいましたが、何かを見ました。でも、ある時点からマンネリに陥ってしまったようです。興行収入を得なければならない脚本家や監督を理解することはできますが、やはりクラシック映画の方が好きです。
文学を破壁機として使ったことで、いつも文学を傷つけてきました。1960年代の作家を思い出してみましょう。何が残ったでしょうか。私には私なりの市民的立場がありますが、集団行動は好きではないので、デモに参加することはありません。どのような集団であれ、加わりたいとは思わないのです。積極的に立場を表明している作家というのは、何かを書き足りないのではないでしょうか。それとも、もう書けないのか。ナボコフ、ジョイス、カフカだったら、デモには参加しないでしょう。
作家は状況がピークになっている時に、すべてを自分の目で観察しています。別の側面から見ることができるわけです。革命作家や前線作家などを例にあげることができます。
それらの作家の中で偉大な作家はいませんでした。トルストイがボロジノについて書いたのは50年後のことです。アーネスト・ヘミングウェイ、ノーマン・メイラー、カート・ヴォネガット、レマルクなどをとっても、偉大な文学ではありません。戦争や流刑を経験した作家が、これによって優れた作家になるというのは信じていません。ファンタジーは経験よりも先にくるように思います。これは私の個人的なユートピアかもしれませんが。
戦争に参加してそれについて書くことと、イタリアに行って「死せる魂」を書くことは別物です。後者では対象物を目にしないため、ちょうど良いのです。チェスの愛好家とプロの違いは何でしょうか。プロはボードを見る必要はないのです。映画「愛のエチュード」では、いつでも木製のコマが主人公をいら立たせていました。プロが見ているのはコマではなく、それぞれのコマの何らかのエネルギーと力です。プロにとってチェスの一ゲームとは、エネルギー現象の衝突なのです。静物ではなく、プロセスとして見ています。ゴーゴリ、ドストエフスキー、ツルゲーネフを例にあげるならば、彼らを取り囲んでいるロシアがしばしば集中を妨げ、いら立たせました(笑)。これが普通です。私は「氷」を、日本で、非常に熱い月に、考案しました。「吹雪」は、ベルリンで、じめじめした季節の変わり目に書き始めました。
彼が活動的だとは言えません。まじめな話、私は20歳の時から確信的な反ソ連主義者で、ソ連政府を嫌っていました。当時すでに、正常な人間の世界とは、ヨーロッパの民主主義だと理解していました。いまだにその確信は揺らいでいません。「親衛隊士の日」は、ジャンルの性格から、その点がより強調されています。国が転げ落ちている時、市民でいることは難しいでしょう(笑)。市民が自分の中から逃げていくのです。矛盾しているように聞こえるかもしれません。おそらくこれは弱気の現れでしょう...。野党指導者のナバリヌイ氏に批判されそうです。ただ、国民の気質をすぐに変えることなどできないと、かなり前に悟ったのです。政権交代すればいいというわけではなく、ヨーロッパ人はずっと前からすでに、国が国民に仕える世界に暮らしているのです。ロシアでは国民が数百年にもわたり、国に仕えています。これが主な存在論的違いです。
モスクワ郊外で生まれ、今でもそこに暮らしています。モスクワ市にはあまり行かないようにしています。この街はここ20年で特徴を失ってしまいましたし、居心地が悪いです。ドイツのベルリンは居心地が良いですよ。広々としていて、落ち着いていて、とても快適な街です。またニューヨークのように、どんな人でも受け入れてくれます。地元の人間とそうでない人間、というようなわけ隔てをしません。
夜中に行きました。車が通ってないですからね…。あちこち散歩しましたが、モスクワがソ連時代と同様、街ではなく、国家の中の国家であることが問題なのです。国家権力の街です。そこには非常に強い、脅かすような国家的なエネルギーがあります。私は子ども時代、赤の広場を歩いたときにそれを感じました。
そうですね。でも何もうまくいきません。この街ではどこでも、自分が招かれざる客だと感じさせられるのです。主は国家です。いつ自分のアパート、車に何かをするかもしれない、通りで自分に何かをするかもしれない国家です。ベルリンとモスクワの違いとは何でしょうか。モスクワでは自分のプライベートな空間と街の外部の空間の間に、境界が存在しています。自分の快適な空間から出るたびに、この境界を感じます。通りに出ると、そこで自分の快適空間が終わり、誰も自分の快適さなんて考えてくれないとわかります。ベルリンではこのような境界がまったくないのです。通りに出ると、自分のアパートの中と同じ法則が、そこでも機能しているのです。これは非常に大きな違いです。
(笑)そのひっくり返り方が多くの点で、ロシアの現在の唖然とした表情をつくるのですよね。
幸いなことに、中身が大人にならないので、年を感じません。したがって私にとっての未来とは、これまでと同様、タブラ・ラーサ(白紙)です。今後何をするかわかりません。最近ふと考えたんです。私の専門とは一体何なのだろうかと。私は何をしているのだろうかと。
(笑)少なくとも飢えることはないでしょうね。食料があればの話ですが。作家とはいかなる職業でもないと、強く感じるようになってきています。これは課業のようなものです。多くの点で自分の心理的特徴と関係する欠かせないものなのです。エリオットが言っているように、私的には文学は感情的体験を生むために書かれるのではなく、感情的体験から逃れるために書かれる。感情的体験から逃れる職業を職業と言えるでしょうか。
説明するのは難しいですね。当初は単純な考えだったんです。うちのベルリンの新しいアパートの壁が真っ白なので、何かを掛けたくなったわけです。そこで油絵を描こうと思い、「ブースナー」という大きな画材屋に行きました。ここには何でもあるので、芸術家の天国です。1970年代、イタチの筆、オランダのグアッシュを闇業者から購入していたこと、良質なキャンバスを買えなかったことを思い出して、店で涙が出てきましたよ(笑)。絵の具、キャンバスなど、必要なものをすべて購入して、絵を描き始めました。
絵画の世界に戻ろうという考えは、いつも心の中に浮かんできていました。なぜそんな気持ちになるのか理解しようとしました。若い時に何かを実現できなかったもどかしさでしょう。文学一色になって、絵画で成長する間もなかったんですね。
2枚目か3枚目ごろです。その後、あのプロジェクトが始まりました。芸術家のエヴゲニー・シェフ氏と一緒にパビリオン「テルリヤ」をつくったのです。もちろん、小説も役に立ちました。
総合芸術ですか。これはすでに起こっています。現代美術を例にあげれば、融合していることがわかります。私はむしろこれに挑戦し古風に芸術を守りたいのです。先端技術に丸飲みにされましたから。今はジャンルの純粋さに戻る必要があると思っています。
ロシア・ビヨンドのニュースレター
の配信を申し込む
今週のベストストーリーを直接受信します。