ウラジーミル・プーチン露大統領とバラク・オバマ米大統領=
ロイター通信全体的な雰囲気は80年代初頭の最悪の時期に近づいており、ある意味ではそれよりさらに悪くなっている。当時であれば、少なくとも互いを挑発するようなことはしなかった。今は高官の声明を聞いても、どこまでが軽口で、どこからが脅迫なのか分からないほどだ。今後、両国関係はどうなってしまうのか。
すっかり無気力に陥ってしまうことがないように、ひとつ指摘しておきたい。ロシアと米国の冷戦後の関係が描いた軌跡は、実は極めて安定的だったのである。それは選挙周期と一致していた。間の時期には良い方または悪い方へ揺れ動くが、周期の閉じ目には決まって関係が緊迫化した。
「ビル・クリントンはロシアに圧力をかける挙に出た。彼はどうやら束の間、ロシアの何たるかを忘れてしまったらしい。ロシアには膨大な数の核兵器がある、という事実を。クリントンがマッチョなゲームを仕掛けてきた。しかしあなたを通じて、クリントンに言いたい。自分がどのような世界に生きているのかを忘れないように、と。彼一人が全世界に対し『いかに生きるべきか』を教えるような世界は、これまでもこれからも、存在しない。多極世界こそ、すべての人にとっての基本なのだ。つまり、中国の江沢民主席と合意したように、彼一人でなく、我々が世界を教え導くのだ」
ビル・クリントンとボリス・エリツィン=ロイター通信
このボリス・エリツィンの言葉は1999年12月初頭の北京訪問の際に発せられた。大統領を辞任するまであと3週間少しというタイミングでのこの発言は、本質上、90年代における露米両国間・両大統領間の(エリツィンとクリントンは公には互いをファーストネームで呼び合っていた)山あり谷ありの関係を総括するものとなった。
エリツィンのこの激越な反応は、「ロシアのチェチェンでの行動は高くつくことになる。欧米は制裁を準備している」とのクリントンの発言に対するものである。
当時エリツィン発言の効果を和らげるのに奔走したのがウラジーミル・プーチン首相であったというのも一興である。
プーチンは言った。エリツィンの発言にロシアと米国の関係を冷え込ませる意図はなかった、と。あまつさえプーチンは、「チェチェン作戦に関するビル・クリントン氏の批判的発言は、恐らく、ロシアが新たな問題を抱え込まないようにと気遣ってのものであろう」と好意的に解釈までしてみせた。これには米国側の、クリントンもその代表者も、慇懃な反応を示した。ロシア大統領の言葉などに注意を用いることはない、というわけである。
このエピソードの中に、よりソフトな形ではあれ、今日ある問題をすべて見て取ることが出来る。ロシアの「誤った」行動に対し懲罰を加えるという警告、軍事ポテンシャルの強大さをちらつかせながらする極めて苛立たしげな反応、それを真剣に受け取ることを拒む米国の身振り。エリツィンが威勢のいいことを言った場所が中国であるということが象徴的だ。エリツィンは強大な隣国の影響力を頼みにしたのだ。これは取りも直さず、現在のロシア・中国間の「アンタント・コルディアル(和親協商)」の祖型である。
実のところ、1993年から1998年までは、米国政府もビル・クリントン個人も、「若きロシアの民主主義」の主要なパトロンを自任し、関係強化に多大な労力をとっていた。しかし、お互い、苛立ちの種は尽きなかった。98年8月、ロシアでデフォルトが起き、外国人投資家らは少なくない損失を被り、強い憤りを感じた。99年の冬および春にはNATOの最初の拡大があり、ユーゴスラヴィア空爆が始まった。GKO(短期国債)のピラミッドが崩壊したことに対する応答として、欧米メディアでは「クレムリン・クレプトクラシー(盗賊政治)」に対する糾弾が盛大に行われた(バンク・オブ・ニューヨークと「ロシアンマフィアによる資金洗浄」の一件)。ユーゴスラヴィアに対する戦争は、予防することも停止させることもロシアの手には負えなかった。そこでロシアは、戦略的には無意味なことながら、プリシュティナ空港にロシアの空挺部隊を投下するという、インパクトのある外交行動をとることになった。北京におけるエリツィンの米国批判はこうした一連の出来事の上に行われたのである。ジョージ・ブッシュはクリントンに対するアンチテーゼとしてホワイトハウスに就任した。それはちょうど、ウラジーミル・プーチンがエリツィンの対極として受け止められたのと同様だ。結局は、同じ図式が繰り返された。それも、振幅をさらに大きくして。リュブリャナにおける最初の会談に見られた相互的なシンパシーから両者の関係は始まり、2001年9月には大飛躍を遂げ、ほとんどロシアと米国は対テロ戦争における同盟国の観を呈した。その後も乱高下を伴う密接な接触が続いた。チェチェン、ABM条約からの米国の撤退、しかしNATO・ロシア理事会の発足、イラク、グルジアの「バラ革命」、ウクライナの第一次マイダン、東欧へのMD設置、コソヴォ・・・。
雰囲気は険悪になり、信頼は瓦解した。しかし2008年4月、ウラジーミル・プーチンの二期目が終わろうとするとき、ソチにおける首脳会談で、戦略的枠組宣言に調印がなされた。同宣言において両者は冷静に相互的な関心事の「目録」作成を試みた(のちバラク・オバマとドミトリー・メドベージェフに月桂冠がもたらされる理由となるあの「リセット」に至る全プログラムが事実上、そこに規定されていた)。和やかに、むしろ温かく、二人は別れた。
4か月後(ブッシュは現職、プーチンは既に首相)、ロシア・グルジア戦争。露米関係は冷戦後最悪の水準にまで落ち込んだ。
ワシントンの頭がカッとなった連中はロキトンネルの爆破を求め、モスクワも、戦争の真の相手はサアカシヴィリではなくブッシュであると確信していた。
今や一巻の終わり、タカ派の象徴たるジョン・マケインが米大統領に就任するかと思われた。そこへリーマン・ブラザーズが破綻し、世界金融危機となり、再び人々はロシアどころではなくなった。
いつか通った同じ道
オバマのときも、再び同じルートへの進入が試みられた。ロシアとの緊張緩和が宣言され(今となっては2009年春のあの誤謬――ロシア語で「ペレザグルースカ」すなわち「リセット」と書かれた象徴的なボタンを用意したつもりが、そこには「ペレグルースカ」すなわち「過負荷」と記されていた――も実に予言的だった)、メドベージェフとオバマの互いに寄せる親近感、戦略兵器削減条約締結への積極的な取り組み、MD計画の停止、イラン交渉、ロシアのWTO加盟。一方では、「アラブの春」、リビア、シリアに関する対立の拡大、ウラジーミル・プーチンの大統領再就任、降って湧いたようなエドワード・スノーデン事件、ウクライナ、再びシリア、そしてもはや、角突き合わせる抗争。
こうして見ると、サイクルが新たになるごとに、対立がより激しく、より危険になっていることは、容易に拝察される。
1999年には口頭で「ロシアの何たるか」を思い出させるだけだった。2008年には初めて間接的な軍事対立ということが言われ、黒海で力の誇示が行われた。そして2016年には、二つの空飛ぶ「無敵艦隊」が互いに直接対立と不慮の緊迫化のリスクを抱えて至近距離に位置している。
言葉のボルテージも上がっている。今や1999年の「ロシアンマフィア」暴露など他愛ない子供のおしゃべりに感じられる。ソビエト連邦がそう呼ばれたように、ロシアが「悪の帝国」と呼ばれるまでには至っていないにせよ、「悪の帝王」についてはすでに名指されている。
露米関係も当然、個人というものの刻印を引きずる。オバマの時代に関係が最も低い水準に落ち込んだことは説明可能である。米国の現大統領は常に自分を中心に立てる(何らの背景もない鮮烈な発言や対外的効果への嗜好もここからくる)。敵であれ同盟者であれ、他人と関係を構築することを必要と見なさない。米国民もまた、ロシア大統領を宇宙規模のデーモンであるかのように思い描き、関係悪化の責任を具体的個人に求めている。
しかし、基本となるのは、首脳間の「化学反応」のあるなし(プーチンとブッシュにはそれがあった)ではなく、あくまで1999年12月に北京でボリス・エリツィンが言ったことである。ロシアは構造的に、米国が支配する世界に組み込まれる用意などなかった。しかし、重みのある挑戦状を突き付ける力もなかった。一方の米国は、一度たりともそのような世界を本当の意味で打ち立てるほどの力を持ったことがなかった。それでいて米国は、その理念を放棄する用意がなかった。段階的にステージを移っていく、このサイクリックな情勢悪化が、今度こそ非常に危険な境界にまで事態を押し進めてしまっている。その原因は、25年前に予定された世界構造のモデルが、完全に失効してしまったことにこそある。
そうして今、移行がどのように、また何に向かって起こるのかということが話されている。せめて束の間、息継ぎできるように、いっそ早く米国の選挙が終わってほしいものだ。誰が勝つにせよ、少なくとも短い休息が得られるだろう。
いわゆるジェットコースターのことをロシア人は「アメリカの山」と呼ぶ。同じものを米国人は「ロシアの山」と呼んでいる。同じように息を飲ませる遊園地の人気アトラクションが、互いに相手方のなせるわざだと思われている。政治についても同じことだ。
*フョードル・ルキヤノフ―「世界政治におけるロシア」誌・編集長、国際ディスカッションクラブ「ヴァルダイ」・学術作業責任者
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