チャーチルのフルトン演説から70年

画像:アレクセイ・ヨルスチ
 ウィンストン・チャーチルの「鉄のカーテン」の言葉で有名なフルトン演説から、今月5日で70年となる。その演説で、第二次世界大戦中にイギリスを率いた政治家は、それまで反ヒトラー連合の同盟国であったソ連に敵対する路線を鮮明にし、フルトン演説は、冷戦開始のシンボルとみなされている。現在、ロシアと西側の関係の悪化がすでに2年ほど続いているが、一部の者が指摘するように、われわれは戦後のグローバルな対立の再現いわば冷戦2.0に直面している、とは言いがたい。

 そもそも、現状を冷戦2.0などと(コンピュータソフトウェアのバージョンアップになぞらえて)規定すること自体、政治家らも世論も生じている出来事を十分シリアスに捉えていないことを証明している。彼らは、この先例なき事態の悪化を、西側の威力に挑んだ者の無条件の敗北をもってほどなく終わるゲームのようにみなしている。

 当時、世界が渉り合っていたものと、現在、生じているものは、まったく別の現象である。当時は、社会はどのように組成されるべきか、それがどのような原則に基づいて発展するべきか、自由・資本主義的なものか共産主義的なものか、という、二つの見方、二つの世界観のシステムが、相対立していた。

 ソ連は、米国に劣らぬ強国であり、ソ連の戦車は、欧州の真ん中に配備されていた。ソ連は、世界的な覇権を求め、西側は、延命に努めていた。当時の東西陣営間の関係は、現在の南北朝鮮間の関係を彷彿させるものであり、それは、事実上1960年代の初めまで、相手の存在する権利そのものの否定に基づいていた。

 

「肌寒い戦争」

 現在の対立は、ロシアをはじめとする一連の国が1991年のソ連崩壊の後に国際社会で形成された状況に不満を抱いているという新たな現実を、反映している。25年前に生まれた国際秩序は、一方のみの利益を完全に考慮して残りのすべての利益を完全に無視するという極めて不平等なものであり、反発は必至であった。

 現在、問題となっているのは、国際社会における権利の公平な分配と新たなパワーバランスといったものの創出である。ロシアは、中国と同様、公平なゲームのルールを獲得しようとしており、西側は、米国のみが国際法に違反することを許されて他の国はすべて米国の言いなりにならねばならなかった1991年以降のように一切を保とうとしている。

 ロシアと西側の現在の関係は、極めて複雑であるが、そこには、イデオロギー的な要素はまったくない。われわれが直面している戦争は、別の条件およびメソッドで行われており、敵対する当事者が別の目的を追求しているので、「肌寒い戦争」と呼べるかもしれない。

 

チャーチルとオバマのレトリック

 現在の状況と第二次大戦終結後の状況のスケールは、チャーチルが用いたレトリックと現代の西側のリーダーらが頼ろうとするレトリックが異なるように、まったく異なっている。当時、ロシア側の脅威は、実存主義的な脅威に見え、チャーチルは、それについて述べるなかで「欧州に覆い被さる影」という表現を用いた。

 現在、西側のリーダーらは、この問題をシリアスに見ようとはせず、それを簡素化され擬人化されたレトリックの形で示している。第二次世界大戦後、チャーチルはもとより、誰一人、ロシアの政治はもっぱらスターリンの政治と結びついていると語ろうなどとは、思いもしなかったろう。現在、われわれは、そうした擬人化(プーチン大統領に関して)や、ロシアは実際には大した問題ではなく制裁圧力のもとで玩具の家のように崩壊すると自らと社会に信じ込ませたり、相手を卑しめたりする試みを、常に目にすることができる。

 バラク・オバマ大統領が一年半前にロシアを三つのグルーバルな脅威の一つに挙げたときでさえ、それは、実際にはさほどシリアスではなかった。オバマ氏の側にしてみれば、そうした言辞は、チャーチルのフルトン演説の時とはまったく異なる意味の対立が隠されているレトリックの単なる現れなのである。

 

*チモフェイ・ボルダチョフ氏は、特別寄稿国立経済高等学院・総合国際研究センター長

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