赤い壁を誇るのはモスクワだけではない:ロシアのクレムリン10選

 クレムリン(大文字のKで綴られた、固有名詞のKremlinのこと)はモスクワで最も人気の観光名所だ。ツアーガイドなら誰でも、来訪者に赤い壁、鐘の王様、大砲の王様やタイニツカヤ(秘密)塔を見せようと、これらを必ず観光日程に含めるものだ。だが、ロシアには10を超える数のクレムリンがあると言うことをご存知だったろうか? ロシア語の「クレムリン」という言葉は、古いロシアの都市や街の中心部に位置する中世の城塞のことを指している。18世紀と19世紀になると、これらの城塞に戦略的な重要性がなくなったため、破壊されたり建築材に流用されていた。現存する城塞のほとんどは現在博物館になっており、それぞれの城塞では、その壁の向こう側に秘められた人々の伝説が言い伝えられている。ここではモスクワの他に9つのクレムリンをご紹介するが、それらはすべて訪問する価値が十分にある。

 クレムリン(大文字のKで綴られた、固有名詞のKremlinのこと)はモスクワで最も人気の観光名所だ。ツアーガイドなら誰でも、来訪者に赤い壁、鐘の王様、大砲の王様やタイニツカヤ(秘密)塔を見せようと、これらを必ず観光日程に含めるものだ。だが、ロシアには10を超える数のクレムリンがあると言うことをご存知だったろうか? ロシア語の「クレムリン」という言葉は、古いロシアの都市や街の中心部に位置する中世の城塞のことを指している。18世紀と19世紀になると、これらの城塞に戦略的な重要性がなくなったため、破壊されたり建築材に流用されていた。現存する城塞のほとんどは現在博物館になっており、それぞれの城塞では、その壁の向こう側に秘められた人々の伝説が言い伝えられている。ここではモスクワの他に9つのクレムリンをご紹介するが、それらはすべて訪問する価値が十分にある。

LORI / LEGION MEDIA
 ロストフ・ヴェリーキー。ロストフのクレムリン(1670〜83年に建造)は、防衛のためではなく、地域における正教の府主教(カトリックの首都大主教に相当)の拠点として立てられた数少ない城塞の一例だ。その壁は、内側の住人を守るためというよりも、外見の美しさを重視してデザインされたものだ。ロシア軍がスウェーデン軍を相手とする1700年のナルヴァの戦いで敗北を喫し、大砲をすべて失った結果、ピョートル大帝は、教会や修道院にある鉄製の鐘を溶かして大砲を製造するよう命令した。モスクワさえもが、この鐘の押収政策を免れることはできなかったが、どういうわけか、ロストフだけはその運命から逃れることができた。
 カザン。この都市の空を圧倒しているのは、ユネスコの世界遺産に登録され、1554〜1562年にかけて建造されたカザンの中世時代の城塞である。ロシア正教の大聖堂の他にも大きなモスクがある。タタールスタンは、1552年に軍がこの都市を占領したイヴァン4世(雷帝)の治世中、ロシア領の一部となった。モスクの隣には、ロシア正教でも最も神聖とされ、生神女のイコンが保管されている場所として正教信者により崇められている生神女福音大聖堂(ブラゴヴェシェンスキー大聖堂)がある。/ この都市の象徴であるジランダのドラゴン、カザン・クレムリンの正面。
 コロームナ・クレムリン(1531年建造)は、当時最大級の城塞のひとつであったが、18世紀から19世紀初頭になると、地元住民がそのほとんどを解体し、崩れた壁を建築材として再利用していた。この城塞がかろうじて保存されたのは、ロマノフ家のツァーリであるニコライ1世によってその旨の布告がなされたからである。コロームナ・クレムリンには17の塔があり、そのうちの1つは、偽ドミトリー1世の妻マリーナ・ムニーシェクにちなんで名付けられたマリンキナ塔である。彼女はこの塔内に幽閉され、後にそこで亡くなったとされている。だが、ある伝説によれば、彼女はそこで亡くなったのではなく、カササギに変身して窓から飛び立っていったのだという。その結果、マリンキナ塔(マリーナの塔)と呼ばれるようになった。
 プスコフ。このクレムリンの内側には、13世紀にドヴモント公によって統治されていた、くりぬかれた居住地区がある。一時期、これは壁や門、教会やさまざまな空間が形成する複雑な防衛構造であった。今日、これはプスコフのポンペイである。考古学者が発見した2つの教会の基礎は、ドヴモント公の統治時代の生活がどのようなものであったかを具体的に物語っている。クレムリンの内部には教会は至聖三者大聖堂の1つしかない。これはずっと後に、18〜19世紀の教会建築の典型例といえる様式で建造されたものだ。このクレムリンの木造の壁は、8世紀から10世紀にかけて築かれた。
 アストラハンの歴史的中心部は、イヴァン雷帝の時代に築かれた基盤を持つクレムリン(1562〜1589年)を中心に成長した。現在のクレムリンには、アストラハン地方の人々の文化や日常生活を専門に扱う民族学博物館があり、その他にも大砲塔、赤の門塔や拷問塔に数々の展示がある。アストラハンのクレムリンはユネスコの世界遺産に登録申請中。
 トゥーラ。世界にスパイスケーキをもたらした他にも、トゥーラはロシアの歴史で大きな役割を果たしてきた。この地は、連続的に侵略してきたタタール人にとっての究極的な最終地点であった。また、1514年から1520年にかけて建築されたロシアで最も古い城塞であるトゥーラ・クレムリンも誇っている。おそらく、このクレムリンは、モスクワのクレムリンが完成した後にトゥーラにやって来たイタリア人建築家の手により築かれたものだ。歴史家は、この要塞は複数の段階を経て築かれたと指摘している。これにより、その壁の間に明白な相違点がある理由が説明できる。
 トボリスクには、シベリアで唯一の石造の城壁がある。このクレムリンの石造の壁と塔は、1683年から1799年にかけて築かれた。ここには、イヴァン雷帝の実子であるドミトリー公の殺害後、ウグリチ市で警報を発した鐘の「避難」場所として特別に立てられた鐘楼がある。シュイスキー公の命により、この鐘は公式に「処刑」されたが、人間の場合と同様に、鐘の下と吊り輪が取り外され、鐘自体はシベリアへの「流刑」に処された。
 ヴェリーキー・ノヴゴロド(あるいは単にノヴゴロド)には、ロシアで最も古いもののひとつに数えられる石造の要塞がある(初めて言及されたのは1044年)。これはユネスコの世界遺産にも登録されている。イヴァン4世の統治下、この都市は政治的な論争に巻き込まれた。ノヴゴロドがモスクワ大公国との関係断絶を企てているという密告を受けると、イヴァン4世はこの反抗的な都市を占領し、残忍なほど徹底的に破壊した。ある伝説によると、この殺戮は、大海原を渡った直後に聖ソフィア大聖堂の十字架の上に降り立ち、地上の暴力を目のあたりにしたハトが石と化したときにようやく止んだという。もっと見る:歴史の古い石造り正教会12堂>>>

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