サンボの創始者オシチェプコフ

ヴァシリー・オシチェプコフ=写真提供:ロシア通信
ヴァシリー・オシチェプコフ=写真提供:ロシア通信

 ウラジオストクでアジア太平洋経済協力(APEC)首脳会議が開催された2012年9月、三井物産の関係者出席のもと、ヴァシリー・オシチェプコフ像の除幕式が行われた。オシチェプコフはロシア初の柔道家で、サンボの創始者である。 

 オシチェプコフは1893年1月6日、サハリン北西部のアレクサンドロフスキー・ポスト村で生まれた。

 両親が死亡した後の1907年、ニコライ堂付属東京正教神学院に入学。日本語の詳細な研究という学習の主な課題を全う。亜使徒聖ニコライは、オシチェプコフの落ち着いた性格と礼儀正しさをしばしば評価していた。学校の条件は完全な日本式。学生たちは日本式の服を着て、日本食を食べ、また布団で寝ていた。オシチェプコフは他のロシア人学生(ロシア人学生の数は20人強)よりも日本的だった。

 

東京正教神学院で柔道を学ぶ 

 神学院では1908年から、柔道の授業が始まり、神田管轄の警察官、おかもとよしろう(2段)が教えていた。オシチェプコフは才能を発揮し、他の神学院生1人とともに、講道館にも受け入れられた。ただ神学院の規則は厳しかったため、同時に2ヶ所で学ぶことは非常に困難だった。また当時の柔道の教えは今よりもはるかに厳しく、さらに日露戦争の直後に対戦相手の中で学ぶということは、簡単ではなかった。当時の日本社会では国粋主義が色濃かったため、オシチェプコフが1913年にロシア人として初めて講道館を卒業し、初段を獲得したことは、画期的なことであった。

 オシチェプコフの教え子によると、日本の雑誌に掲載された「ロシアのクマが目標達成」という自身の段位達成の記事を、大切に保管していたという。神学院を優秀な成績で卒業した後、ロシア軍の軍事通訳になるため、ハルビンに行く。任務が忙しくても、ロシアで大変なことが起こっていても、柔道の練習を続けた。1917年、オシチェプコフはウラジオストクで世界初の国際柔道団体戦を開催。小樽市の民間学校の団体を招いた。その後日本に出張した際、昇段試験に合格し、2段になった。

 ロシア革命後、日本遠征部隊本部の通訳を務めた。「浦潮日報」は1918年2月23日、「ウラジオストク・スポーツ協会後援で柔道・ボクシング大会が行われる。午後3時より開始。選手は日本とイギリス軍艦の勇士ら」と伝えた。同じ日、第5戦隊司令官、海軍少将、柔道家である加藤寛治は、日記にこう書いていた。「スポーツ協会で柔道を見た。ヴァシリーは見事!思わず一緒に組みを実演」

 

柔道からサンボを編み出す 

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サンボ これぞ格闘技

 オシチェプコフはやがてウラジオストクを去る。映画配給者になることを決意し、必要な機材と映画を購入し、そのままサハリンの地元に戻った。数年ほど会社の所有者、映画技師、活動弁士として活動しながら、日本の軍隊に関連する映画を上映。その後日本に移住した。当時、亡命ロシア人は日本にたくさん暮らしていた。だが日本で行おうとした映画事業は失敗。1926年春にロシアに帰国し、その後柔道の普及に没頭した。

 1929年より赤軍スポーツクラブの柔道の師となり、その後モスクワの体育大学でも教えた。ソ連で外国人と接触できなかったオシチェプコフは、わずかな期間で柔道を主要な競技へと発展させただけでなく、柔道を完成させながら、ソ連の現状に適応させ、新しい競技を考案した。この競技は1940年代、ソ連でサンボと名付けられた。

 モスクワ大学の格闘技史学者であるアレクセイ・ゴルブィリョフ氏の試算によると、オシチェプコフが知っていたと思われる世界の護身術は数十種類にのぼるという。オシチェプコフの柔道は1930年末までに、講道館の柔道とは大きく違ったものになっていたが、その違いは悪いものではなかった。他の格闘技に存在するスポーツ技術、応用技術が含まれた護身術の汎用種であった。「豊富な技術と吟味された方法論により、オシチェプコフの柔道に類似したものは当時なく、全世界のより完成された白兵戦のシステムに属していた」とゴルブィリョフ氏は話す。

 サンボの認知度は日本でも高まりつつある。プーチン大統領杯全日本サンボ選手権大会が幾度も開催されており、さらに今年11月20日から24日まで、成田市で世界サンボ選手権大会も行われる。これにロシア人は無関心でいられない。

 日本にとってサンボは、さらなる誇りとなるかもしれない。東京で学び、日本に長く暮らし、真の柔道を理解し、自分の人生を柔道にささげた人物が、サンボの基礎を築いたのだから。

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