漂泊の画家マルク・シャガール

かの20世紀の大画家シャガールは、ユダヤ、フランス、アメリカの画家だが、生まれはロシア帝国なので、ロシアの画家でもある=ナタリア・ミハイレンコ

かの20世紀の大画家シャガールは、ユダヤ、フランス、アメリカの画家だが、生まれはロシア帝国なので、ロシアの画家でもある=ナタリア・ミハイレンコ

かの20世紀の大画家シャガールは、ユダヤ、フランス、アメリカの画家だが、生まれはロシア帝国なので、ロシアの画家でもある。

生涯を予言した絵 

 マルク・シャガール(1887-1985)の最も有名な絵の一つのタイトルは、「時間は岸のない川である」。このシュールレアリスティックな作品では、振子時計が川を流れ、時計のうえでは、翼の生えた大きな魚が愁いに沈んでヴァイオリンを弾いている。これは、まさに生き写しのメタファーであり、シャガール自身も、その魚のような生涯を過ごした。この画家の時間の感覚には、目を瞠るものがあり、彼は、危機が迫るや身を潜めてその地を後にした。その類まれな「嗅覚」が、ボグロム(ユダヤ人に対する組織的な虐殺や略奪)やスターリンの粛清やファシストの強制収容所からこの画家を救い、彼は、ほぼ百年を生きることができた。戦争と残虐と流血の一世紀を…。

 

つきまとう災厄 

 災禍は、生まれたときから彼についてまわった。この世に生を享けると、町に火災が起こり、世界は、この緑児を炎で迎えた。市場の商店が炎上し、隣接する建物に延焼し、一時間後には地区全体が火の海だった。シャガールの母親は、わが息子を救おうと揺りかごをひしと抱いて必死に安全な場所を探し求めた。「もしかすると、私がつねに不安に駆られてどこかへ移りたいと感じるのは、そのせいかもしれない」。シャガールは、そう述懐している。

 次なる災禍は、有名なシュプレマティズム(芸術絶対主義)の画家カジミール・マレーヴィチと共に訪れた。革命後、シャガールは、生地ヴィテプスクの芸術担当のコミッサール(人民委員)に任命された。その職務には、ヴィテプスクの芸術学校の指導と革命記念日の組織が含まれており、シャガールは、そのポストで自分の才能を存分に発揮した。

 彼は、シュールレアリスティックな革命記念日を演出し、市民は、つばの広いハットをかぶり、ボタン穴に蝶結びのリボンを飾り、「言葉と音響の革命万歳!」というプラカードを掲げ、竹馬に乗ってパレードに参加する淑女たちもいた。建物は、シャガールの指示により、青い四角をもつオレンジ色に彩られ、市庁舎の屋根には、緑の馬に跨った人間が描かれ「シャガール、ヴィテブスクに」という署名の入った旗が翻った。

 

マレーヴィチに追い落とされる 

 順風満帆に想われたが、有名な「黒の正方形」の作者であるマレーヴィチは、ボリシャヴィキの幹部に「シャガールは十分に革命的ではない。人物を描いているが、真に革命的な芸術は、無対象で抽象的でなくてはならない」と説いた。

 もちろん、問題は無対象などではなく、単にマレーヴィチがコミッサールになりたがり、敵を追い落としただけの話。シャガールは、そこを去ることになったが、数年後、詩人や画家や演出家が当局の弾圧に晒されているとの風の便りがロシアからパリへ届くようになる。シャガールが彼らと同じ運命を辿っていたことも十分に考えられる。

 しかし、フランスも、彼のような人間にとってまったく安住の地というわけではなかった。第二次世界大戦が始まったが、シャガールは、ドイツ軍がすぐそこに迫ってくるまでフランスに留まり、もう少しで災禍に呑み込まれるところだった。ドイツの占領下でユダヤ人の芸術家がどんな目に遭うかは、想像に難くない。ナチスの将兵たちは、すでに1933年に他の「退廃的芸術」とともに彼の作品を焚火にくべていたのだから…。

 

「おまえさんは空を飛びながら死ぬ」 

 間一髪、シャガールは、ニューヨークへ渡った。もうそこに落ち着いてもよかったが、一所不在の漂泊は、終生に亘って続いた。幼少の頃、ジプシーの占い師に「おまえさんは空を飛びながら死ぬ」と予言されたが、それは的中せず、彼は、自分の寝台のうえで天に召された。画家は、自分の作品に登場するものたちと同様に天翔るように生きた。シャガールの絵のなかでは、恋人たちも故郷のユダヤ人も魚たちも、すべてのものが、宙を漂いながらヴァイオリンを奏でている。

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