Getty Images撮影
―大阪に行くのはどんな気分ですか?
色んな気持ちが混ざり合っていますね。まず、ひとしお責任感を感じます。故国で、故国の観衆の前で演じるのですから。でも、その覚悟はできていますし、責任感に押しつぶされるようなこともありません。ただ、自分として最高の滑りをお見せしたいと思うだけですね。私とサーシャ(パートナーのアレクサンドル・スミルノフ――編集部注)が、夏に日本で滑ったときも、とても温かく迎えてくれました!あんな気持ちをまた味わえたら、と思います。
― あなたとサーシャは、NHK杯に2度出場し、2009年は銀、2011年は金でした。今回の目標は?
大事なのは、自分のスケートを楽しみ、持てる最良のものをお見せすることです。サーシャが負傷し、それに関連して色んなことがあった後では、グランプリシリーズの2つの競技会に出させてもらうことがどうしても必要でした(ペアは、スケートアメリカとネーベルホルン杯で金メダルを獲得した――編集部注)。そして私たちは、この与えられたチャンスをただ楽しんでいるのです。
― 私は、15年前に初めて4回転ジャンプをやった選手たちの気分を覚えています。当時、こんな小話が流行ったくらいです。「3回転か4回転か、どうやったら分かるか?4回転なら選手は喜んでガッツポーズをするよ」。会場のすべての観客が、何回転か区別がついたわけではありません…。
ほんとにそうです!GPシリーズ第1戦のスケートアメリカでは、ちょうどそんな感じになりました。私たちは4回転をとても軽やかにきれいに決めたのですが、誰もわかりませんでした(観客はかなり多かったんですけど)。モスクビナ・コーチだけが拍手してくれました。
― 川口&スミルノフのペアは、2度の五輪シーズンを経てきた訳ですが、一番鮮やかでご自身にとって大切な出来事は?
難しい質問ですね。オリンピックだと言わねばならないのかもしれませんが、これは私のスポーツと人生における目標の一部にすぎませんでした。ロシアでは、考えかたが全然違い、選手にとっては五輪が最も重要です。
バンクーバー五輪は、何となく私のそばを通りすぎていったという感じです。実感もなかったし、何と言うか、ピンと来ませんでした。身辺の雑事もすごく多くて、国籍、パスポートを変えたり…。ソチ五輪のときは、それに向けてとても真剣に準備していましたが、今度はまったく別の理由で、やはり“通り過ぎて”いきましたね。その代わり、今私たちはスケートを続けていますし、これこそが私にとってはとても大事なことなんです。だって、ソチの後で引退しようと思っていたんですから。でも今は、気分も体調も最高です。こんなときに何で引退する必要があります?私はフィギュアスケートが大好きです。それで、私とサーシャはもう1シーズン、選手生活を延長することにしました。その後どうなるかは、いずれ分かるでしょう。
― もしかすると、2018年の平昌冬季オリンピックまで行けるんじゃないですか?
いえいえ、そのことはまだ考えたくもありません!なぜ私たちは1年のキャリア延長を決めたのか?五輪用のプログラムを放棄するに忍びなかったからです。このプログラムは、私たちにはすごく面白いし、気に入っているんです。しかも、そのためにどれだけ努力したことか。
―タリンで開催された欧州選手権(2010年)での金メダルは、あなたのキャリアのなかで、もう一つの重要な出来事だったんじゃないですか?日本人として初めてこれほどの成功を収めたことでもあり…。
そうですね。でも、幸福を味わったのは勝利の瞬間だけでした。スポーツではいつでも、すべてを新たに証明していかなければならないのです。幸福感にあまり長く浸っているわけにはいきません。楽しいことも辛いことも、乗り越えていかねばなりません。
私は最近、フィギュアスケートを楽しんでいるな、と感じるようになりました。以前はそれは、仕事であり修行だったのです。今では競技会で、観衆とのコミュニケーションやパートナーとの共演、「阿吽の呼吸」を楽しんでいます…。こういう感覚が、私がまだ選手生活を続けているうちに私に訪れたことは幸せです――引退してショーでもしているときにではなく…。
でも私は時々自分にこう言います。「悠子、ちょっと待って!スポーツ上の課題がまだあなたにあることを忘れないで!」(笑)
―この8年間で、最もスポーツ的でない、重要な出来事は?
私は運転免許を取りました!(笑)ロシアの免許ですよ。すごく時間を費やしましたけど、誰の助けも借りずに、自力で合格しました。結構な労力を食い、神経をすり減らしましたけどね。
―たくさんの日本のファンが、あなたがロシアで活動している間にロシア語とロシアの習慣を身につけたかどうか知りたがっています。ロシア語については明らかで、私はあなたと今こうやって ロシア語で話していますが、習慣のほうはどうですか?
いくつかの習慣は身につけたと思うけど、そのために特別な努力をしたわけではありません。10年間にわたり、私の身の回りにいたのはほとんどロシア人でした。しかも教養の高い紳士的な人たちばかりですから、こういう素晴らしい人たちに囲まれて、言葉も習慣も身につかないことはあり得ないでしょう。
―ボルシチも召し上がるようになったとか…
ボルシチだけじゃありませんよ。私は概してロシアのスープが大好きです。モスクビナ・コーチのお嬢さんのオリガさんは、スープを作る名人で、毎週、大きな鍋ごと持ってきてくれます。
―パートナーのサーシャとは何語で話すのですか?
もちろんロシア語です。サーシャは、日本語はついにマスターできませんでした。その代わり、私がロシア語をマスターした訳です。今では本も、主にロシア語のものを読んでいます。モスクビナ・コーチとは最初の頃、英語でコミュニケーションしていたんですが、すぐにそれでは十分に理解し合うことができないことが分かりました。
私は、ロシア語も、ロシアのユーモアもよく分かると思っていますけど、でもやはり私は日本人ですから、サーシャが何か一言でも日本で言ってくれたら、嬉しいんですけどね。発音が正しいかどうかなんて、大したことではありません。それにこれは、私たちだけの、個人的な「トリック」になります。私たちだけが分かり合い、周りの人にはちんぷんかんぷんという。
―日本に帰ることを考えることはありますか?
もちろんありましたし、今も考えています。選手生活が終わりに近づいた最近はとくにそうですね。もっとも、サーシャと盛んにトレーニングしたり競技会に出たりしている今は、そういう考えは意識の後ろの方に引っ込んでいますけど、昨秋は考えましたね。
2020年の夏季オリンピックが東京で開催されると知ったとき、私も何かのお役に立てるのではないかと思いました――日本のためにも、ロシアのためにも。私の夢は、両国の架け橋となり、結ぶ糸となることです。そうなれたら素晴らしいな、と思います。
コーチにもなれるでしょうけど、私は、両国を結びつけるために、語学を含む自分の知識を活用したいのです。それに、私の受けた教育は、それに相応しいもののように思います(川口は、サンクトペテルブルク大学国際関係学部を卒業している――編集部注)。
とはいえ、東京五輪まではまだ時間がありますから、まずは落ち着いて“滑り終える”ことにします。そのときになれば、何をすべきか分かるでしょう。ロシアは私に、最高のレベルで競技するチャンスを与えてくれましたから、善に対して善で報いたいのです。お返しに何か役に立ちたいと思います。
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