現在はロシアリーグがあり、またアメリカのメジャーリーグベースボール(MLB)で活動するロシア人も10人強いる。国内の野球は資金不足の問題を抱えているが、指導員や選手はオリンピックへの出場を夢見ている。
野球はアメリカの伝統的なスポーツ。ロシアの野球史は途切れていることもあり、国内ではそれほど知られていない。野球が復活した1980年代は、国際オリンピック委員会が野球を正式種目として認めようとしていた時代である。ペレストロイカで大きく変貌していたソ連で、アメリカ人も野球への関心を高めようとしていた。
モスクワの野球場の一つは、モスクワ大学の敷地内にある。これは日本の東海大学の創立者である松前重義氏から、両大学の交流20周年を記念して寄贈されたもの。現在も松前重義スタジアムと呼ばれている。
ソ連の不思議な野球ユニフォーム
1988年、ソ連の野球チームが、初めてアメリカを訪れた。メリーランド州ボルチモアで、ソ連のメンデレーエフ化学工科大学のチームと、アメリカのジョンズ・ホプキンス大学ブルージェイズが対戦。この時、後に「ロシア国際野球(RIB)」を創設する、アメリカ人のボブ・プロテクスター氏が、初めてソ連の選手を見た。プロテクスター氏は1990年3月、メンデレーエフ化学工科大学のチームの監督に就任。
アメリカでは子どもたちが5歳ぐらいから野球を始めるが、ソ連では事情が違っていた。再開されて間もない野球のチームには、転向した水球、テニス、陸上競技の選手など、畑違いの選手しかいなかった。
モスクワ航空大学とロシア人民友好大学のチームで監督を務めたヴァレリー・ヴァリンスキー氏はこう話す。「初の野球大会はキエフで行われた。あれは1987年春。うちの選手12人はモスクワから列車でキエフに向かった。どんなユニフォームを着ればいいのかわからず、上はラガーシャツ、下はフェンシングのズボン、頭には滑稽なキャップという格好をした」
選手になるにはお金がかかる
2012年ロンドン夏季オリンピックの公式種目から野球が外されることが、2005~2006年に決定すると、野球への関心は少し低下した。ロシアのチーム「グリーン・ソックス」のピッチャーで、野球のスポーツマスターであるアレクセイ・ルジェフスキー氏はこう説明する。「我々はチームへの加入料を払い、ユニフォームを買う。ロシア・リーグに参加しながら、自分のお金を払っている。モスクワには現在、4ヶ所野球場がある」
野球への資金的援助は少ない。ロシア野球連盟が選手にわずかながらの支払いをしている。もっとも有望な選手には報酬が与えられるが、18歳以下限定であるため、それ以降はなかなか続けられない。「どんな有望な選手でも、どこかでアルバイトをしなければいけない。そのため、多くが良い就職先を見つけると野球をやめてしまう。少年野球チームには賞金が出るが、大人のチームではどんどん困難になっている」とルジェフスキー氏。
それでもロシア野球はスポーツ界から切り離されているわけではなく、発展する可能性はある。アメリカのMLBでは、1992年から11人がプレーしている。
沿海地方の野球は地理的に恵まれた環境にある。地元チームには、日本や台湾などの野球の人気もレベルも高い国の大会に参加できる可能性がある。ただし、これらのチームの選手はほとんど代表に入れない。
極東にも独立リーグが
ロシア野球連盟のウェブサイトの加盟一覧には、8チーム、2グループ記載されている。どこもモスクワを中心とした首都圏に位置している。他の地域の人は野球のことを知らないのだろうか。「ロシア・リーグはモスクワにしかないが、他にないわけではない。極東野球、ウラル野球もあり、この3つが連動していないだけ。リーグが国内で広範的に展開されれば、数年後には選手の質も著しく高まるだろう」とルジェフスキー氏。
野球は1992年バルセロナ夏季オリンピックで正式種目となったが、2012年ロンドン夏季オリンピックで種目から除外された。現在は多くの専門家が、野球とソフトボールがオリンピック種目として復活すると考えている。
早ければ東京オリンピックで野球を見れるか
野球が夏季オリンピックの種目に含まれれば、ロシアの現状も変わると専門家は考える。「ロシアが真剣にプレーするようになれば、代表は少なくともヨーロッパで存在感を示せるまでになる」とルジェフスキー氏。
プロテクスター氏はこう話す。「トーマス・バッハ新国際オリンピック委員長に期待してる。今年にも動きがあり、2020年の野球人気の高い日本でのオリンピックで復活するかもしれない。アメリカでは、『指を十字に交差させている(うまくいくよう祈っている)!』って言うんだ」