プルシェンコ9年間の手術遍歴

プルシェンコは健康状態が良くなったら、自身のアイスショーを行う予定=Getty Images/Fotobank撮影

プルシェンコは健康状態が良くなったら、自身のアイスショーを行う予定=Getty Images/Fotobank撮影

フィギュアスケート男子シングルのエフゲニー・プルシェンコが、再び腰の手術を受けた。一連の手術シリーズに、新たな外科手術が加わった。

 イスラエルの病院で3日、プルシェンコの腰椎の手術が行われ、無事成功した。これはフィギュアスケートを始めてから13回目の手術である。腰から取りだされたのは破損したボルト。ソチ五輪で強い負荷がかかったことで折れてしまった。プルシェンコは今後、リハビリを受ける。

 医療センター「ラマト・アヴィヴ」のイリヤ・ピャチゴルスキー所長の言葉を、ロシア通信がこう伝えている。「手術は終了し、すべてが順調。折れたボルトの両部分を摘出した。特別なフュージョンという部品が腰椎と一体化するようにボルトが必要。すべてが固まっていたから、(すでに不要となった)他の3本のボルトも取り除いた。今はボルトのないフュージョンつきの腰椎になっている」。

 これまでさまざまな手術を受けてきたプルシェンコにとって、ボルトの破損は”氷山の一角”である。

 

鼠径ヘルニア除去(2005年)

 2002年ソルトレイクシティ冬季五輪で銀メダルを獲得してから3年、モスクワで行われた世界選手権に参加した。大会前に激痛を感じ、ショートはなんとか滑ったものの、フリーは棄権。

 次のトリノ冬季五輪まで残すところ1年弱となっていたため、さまざまな医師に痛みの原因を聞いた。原因を明言したのはサッカークラブ「ゼニト・サンクトペテルブルク」のミハイル・グリシン医師。鼠径輪に問題があり、ドイツ・ミュンヘンの病院で詳しい検査を行えば、しかるべき診断結果がでるとの意見を述べた。実際にその通りで、ドイツの医師は手術初日に一つ目の鼠径ヘルニア、翌日に二つ目の鼠径ヘルニアを除去した。一ヶ月間リハビリを行い、痛みのことを忘れた。

 

半月板除去(2007年)

 厳しい練習をしてのぞんだ2006年トリノ冬季五輪で金メダルを獲得した翌年、再びミュンヘンの病院に入院。片方の膝の半月板が負荷の強さに耐えきれず、バラバラになっていた。崩壊によって生じた隙間には膿がたまっていた。

 サッカー・ドイツ代表のハンスウィルヘルム・ミューラーウォルファルト医師が手術を担当し、時間はかかったものの、無事成功した。

 

半月板改善(2010年)

 2010年バンクーバー冬季五輪でアメリカのエヴァン・ライサチェクに負け、銀メダルに終わったため、世界選手権での雪辱戦に燃えていた。

 だが医師はプルシェンコの膝の状態が悪いことから、参加を厳しく禁止。再度の手術で以前手術した半月板の状態は改善したが、1年以上競技から離れた。

 

半月板修正(2012年)

 再び半月板の故障を抱えたが、今度はもう片方の膝。2014年ソチ冬季五輪まで残り2年で、プルシェンコを不安にさせた。ヨーロッパ選手権では、大量の鎮痛剤を打って滑ることができたが、その効果がいつ切れるともわからず、リスクがあった。7度目の優勝を遂げた後、ミュンヘンの担当医師が手術を行い、半月板の損傷部分を切除し、磨いた。半年後には大会に出場。

 

椎間板ヘルニア除去(2012年)

 2012年はケガばかりでひどい年だった。大きな椎間板ヘルニアが見つかり手術。手術は成功したが、これは腰椎の問題の序章でしかなかった。

 

椎間板置換(2013年)

 もっとも災難だったのはこの年。ヘルニア除去後、健康状態は急速に悪化。朝は熱い風呂に20~30分つかり、練習前と練習後にはマッサージに耐えなければならなかった。

 このような状態に業を煮やし、イスラエルの病院を受診。MRI検査を受けた結果、椎間板の1枚が完全にすり減った状態で、神経が挟まっており、もう1ヶ所のヘルニアもあった。ソチ五輪の1年前にポリマー製の人工椎間板が埋め込まれ、4本の金属製のボルトで固定された。

 

ボルト摘出(2014年)

 地元で開催された五輪で、不運なことが起こった。団体戦では、その後個人戦で金メダルを獲得した日本の羽生結弦にショートで負けただけで、フリーでは見事1位になった。だが個人戦前に練習していたところ、腰に痛みを感じ、さらに転倒。その後棄権した。

 プルシェンコは健康状態が良くなったら、自身のアイスショーを行う予定。次回の2018年平昌冬季五輪への出場も否定していない。

 

元記事(露語)

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