お祝いが本格的に始まるのは1月6日で、信仰者たちは降誕節 (クリスマス) 前夜の聖体礼儀に出席してから、肉と乳製品を控える40日間の斎戒期間の終わりを告げるクチヤ (甘く炊き込んだ穀物) を食す。この料理は、十二使徒を象徴する12皿の料理によって構成され、空が暗くなり最初の星が現れてから始まる降誕節前夜の饗宴で供される一皿となっている。
祝祭、ご馳走や飲み物、一年で最も暗い時期に一堂に会する家族。 想像に難くないが、クリスマスはロシア人作家たちに何世紀にもわたって豊富なアイデアを提供してきた。19世紀の茶目っ気いっぱいの作家ニコライ・ゴーゴリ作の『降誕祭前夜』では、一晩だけ自由を手にした悪魔がそれを悪用し、「世界中をめぐって人々の頭の中を罪深い考えでいっぱいに」する。悪魔は雪の降るクリスマス・イヴの晩に月を盗み、月光がなくなって真っ暗闇に包まれた辺鄙のディカーニカ村には大混乱が発生する。
敬虔な正教徒である地元のコサック人たちは、自宅で家族とクチヤを食べている。酔っぱらいたちは道路沿いの酒場で四つん這いになっている。その頃、街の尊敬すべき長老たちが一人一人、狡猾な地元の未亡人のもとへ盗みを働きに行くが、不意にも石炭袋の中に隠されてしまう。放蕩や酩酊、秘密のいたずらごっこに満ちたユーモアいっぱいの物語は、女帝のスリッパを盗むためにサンクトペテルブルクへ魔法で飛ぶという話で最高潮に達する。この『降誕祭前夜』は、ゴーゴリの諷刺とファンタジーの才能がよく表された作品。
ドストエフスキーの『キリストのヨルカに召されし少年』は、この祝祭と豊富さでいっぱいの時期に極貧の窮状に読者の喚起を向ける、かなり陰鬱な作品だ。飢えに苦しむ少年がある地方の町にたどり着き、地下室で「壁と同じように冷たく」なって横たわる母親を置いて脱出する。この街の装飾にショックを受けた彼は、クリスマスツリーや「アーモンドケーキ、赤いケーキ、黄色いケーキなど、ありとあらゆる種類のケーキ」を陳列したウィンドーディスプレイの間を行き来するが、すぐに激しい空腹とひどい風邪に悩まされる現実に立ち戻るのであった。群衆から追いやられた少年は、ある中庭でうずくまる。そこで彼は、数え切れないほど多数の「明るく輝く」子供たちに囲まれたキリストのクリスマスツリーを目にする。それらの子供たちは少年の周りを飛び、彼にキスする。結末はもうお分かりだろう。彼は凍死するのだ。
胸をつかれる物語りだ。だが、上流階級の暮らしだからといって必ずしも状況が恵まれていたわけではない。20世紀初頭のモスクワの特権階級を舞台とするボリス・パステルナーク作の小説『ドクトル・ジバゴ』には、あらゆる文学の中でも最も劇的なクリスマスシーンの一つが繰り広げられる。ヒロインのラーラは、彼女を操って浮気に導いた下劣な弁護士コマロフスキーに立ち向かうため、クリスマスパーティーに姿を現す。「何重にも飾られたライトが輝き、熱く息をしているかのようなクリスマスツリーの前で、ダンサーが目がくらむようにくるくると旋回しながら踊っていた」とパステルナークは描写する。華美な服装をしたゲストたちはミカンやその他の珍味をがつがつと平らげている。コマロフスキーは「ポンペイ」の間でトランプに興じている。ダンスが熱を帯びる中、ラーラがピストルを持ち出したという噂が広がると、宴会気分は一瞬にして壊されてしまう。このピストルは、この季節の甘い快活さに対抗する、個人の苦痛の不和という隠喩なのだ。ロシア・ビヨンドのニュースレター
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