カンディンスキーは絵画に専念する前、「まじめな」職業についていた。両親の希望で、モスクワ大学法学部を卒業。キャリアを順調に構築していった。1893年に卒業した後は大学に残って教鞭をとり、3年後にタルトゥ大学(現在はエストニア)から法学の教授になることを提案された。この時30歳になっていたカンディンスキーは、絵画の道に進むことを最終決断した。
カンディンスキーは新しい言語を模索する中で、さまざまなスタイルを垣間見た。1896年、モスクワで展示されたクロード・モネの「積みわら」に衝撃を受けた。カンディンスキーはミュンヘンにあるアントン・アズベの学校で学んだが、ここでは個別の筆づかいや純粋な色づかいに傾倒していった。当初はモダニズムやシンボリズムに近く、「クリノリンの貴婦人たち」(1909年、モスクワ・トレチャコフ美術館所蔵)などの、伝統的な邸宅の様子を描いていた。だがヨーロッパをまわった後の作品には、フォーヴィスムやナビ派の影響が見られるようになった。
ワシリー・カンディンスキー=AFP/East News
最初の抽象化に先立って、絵画だけでなく、木版画で育んだカンディンスキーのテーマには、簡略化と形状の破壊が見られるようになっていた。1910年に開催された「ミュンヘン新芸術家協会」の2回目の展覧会(パブロ・ピカソ、ジョルジュ・ブラック、キース・ヴァン・ドンゲンを含むさまざまな国の芸術家が招かれた)で、カンディンスキーは「『コンポジションII』へのエチュード」(ニューヨーク・グッゲンハイム美術館所蔵)を披露。評論家はすぐさま、作品を狂気だ、「モルヒネやハシシでおかしくなった」などと酷評した。
カンディンスキーの創作における最初の非対象作品(そして世界初の抽象画)は、「円と絵」(1911年、トビリシ・グルジア国立美術館所蔵)と考えられている。本人によれば、自然は創造性に刺激を与えるが、コピーすることに意味はない。感情的なトーンを与え、構図の構築を助けるのは、色である。形状は動きをつくる面と線の組み合わせ。
カンディンスキーは多くを生みだした。抽象言語ができ始めた時期の1909年から1914年までに、200枚の絵やスケッチを描いた。それらの多くは失われた。ソ連時代、地方の美術館に送られ、社会主義リアリズムの精神に反するとして保管スペースに隠され、ナチスドイツでは退廃芸術と認定された。
ロシア・ビヨンドのニュースレター
の配信を申し込む
今週のベストストーリーを直接受信します。