アントン・チェーホフ=
タス通信大詩人プーシキンは、まだ幼い「サーシャちゃん」の頃から、体操、いろんな遊戯、レスリングが好きだった。初期の詩『夢』で、首都ペテルブルクの柔弱な伊達男たちを嘲笑し、体育をやろうと呼びかけた。農村で詩人は水泳をやったが、晩秋の冷たい水でも泳いでいる。彼がもう一つ熱中したのは馬であり、ダンスと乗馬の名手だという評判を重んじていた。必要とあらば、馬に鞍を置かずに乗ることができた。
アレクサンドル・プーシキン =ロシア通信
ボクシングにも詩人は熱を入れた。友人のピョートル・ヴャーゼムスキー公爵は回想にこう記している。「1827年のことだが、プーシキンは私にボクシングを教えてくれたので、私はこのスポーツに習熟した」
ミハイル・レールモントフ=ロシア通信
この時期の詩人としてプーシキンと双璧のレールモントフは、自分の領地タルハヌイ村で農民の子供を集めて拳闘大会を催し、勝者には気前よく蜜菓子をふるまった。長詩『商人カラシニコフの歌』では、16世紀イワン雷帝の時代にいかにモスクワ川の凍結した川面で拳闘試合が行われたか、詳しく描いている。
レールモントフはスケートも好んだ。青年時代に、氷上にスケート靴のエッジで輪を描く技を瞬く間に習得している。
また、彼もプーシキンと同じく名騎手だった。カフカスで軍隊勤務をしていた時、武装した山岳民たちが彼を追撃してきたことがあるが、乗馬の技が彼の命を救った。
さらに彼はレイピア(細身の片手剣)の名手でもあり、フェンシングの師匠はプーシキンと同じだった。
レフ・トルストイ=ロシア通信
幼年から老年にいたるまで、作家は、毎日体操をやり、さらに亜鈴、鉄棒などで運動し、何時間も徒歩で散歩するのが常だった。スケートも好きで、高度な技もこなし、後にそれを『アンナ・カレーニナ』の男性の主人公コンスタンチン・レーヴィンにやらせている。冬には、屋敷のあるヤースナヤ・ポリャーナにスケート場がしつらえられていた。
老齢に達してから作家は、当時流行し出した自転車に乗り始め、ロシア自転車協会の名誉総裁にも選ばれている。1896年、一般読者向け科学雑誌『サイエンティフィック・アメリカン』は、「トルストイ伯は…今度は自転車に乗り、自分の領地の農民を仰天させている」と伝えている。
「親愛なる、やたらと腰の重いフョードル・オシポヴィチ!お手紙拝受。私の返信は簡単です。あなたは自分自身の敵ですぞ…。第一に、体操をそう軽く考えちゃいけません。第二に、蒸し暑いモスクワでじっとしてるなんて恥ずべきことです。あなたは、バブキノ村にいらっしゃれるのだから…体操をやる場所はあります。水泳も思い切りできますよ」。チェーホフはモスクワ体操協会の設立者の一人だった。
マクシム・ゴーリキー=タス通信
この庶民出身のソ連作家は、子供のころから肉体労働には慣れっこだった。16歳からパン工場で働き、重さ5プード(80キロ以上)の小麦粉の袋をかついだ。後に彼は、魚業と製塩業に従事し、そこでも身体能力が必要となった。有名作家になった後でも、彼は非常な体力を保っており、同時代人たちの証言によると、サーカスまがいの曲芸もやってのけた。例えば、1プード(16.38キロ)の亜鈴を手に、ゆっくりと10回十字を切って見せたという。このほか、作家はスキーをやり、ボート漕ぎとスケートも好んだ。
ウラジーミル・マヤコフスキー(左側)=タス通信
このソ連の大詩人はボクシングをやっており、何度も詩のなかでそれを宣伝した。
「フランスとイギリスのボクシングを身に付けろ。頬骨をひん曲げるためじゃない。銃剣も弾丸も物ともせず、たった一人でパトロール隊をまるごと武装解除するためだ!」
コーチの証言によれば、マヤコフスキーはトレーニングでも骨身を惜しまなかった。ある時、詩人がサンドバッグを正確に強打したところ、破裂させてしまったという。
ウラジーミル・ナボコフ=Getty Images
『ロリータ』の作者は、蝶の収集で有名なばかりでなく、勇敢なボクサーでもあった。彼は、軍隊時代から既に、このスポーツを盛んにやっていた。彼の兄弟の回想によると、彼はある時ベルリンで、しつこくつきまとってきた不良を正確なパンチ一発で撃退したという。
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