ディアナ・ヴィシニョーワは世界的なバレエ・シンボルの一人。=
写真提供:Irina Tuminene-マリインスキー劇場と関係を維持するのと、そこから自立するのは、どちらが大変でしたか。
もちろん、どれも口で言うほど簡単でもスムーズでもありませんでした。マリインスキー劇場の構造は個人の道のりを整えるものではないので、自分の立場のために闘わなくてはならなくなりました。でも、あきらめず、話し合い、説明し、最終的には対応してもらえました。20歳の時、マリインスキー劇場を経由して、私にすごい提案があったのですが、知らされませんでした。今は、知らされなくて良かったと思っています。クラシックのレパートリーの習得期間というのは非常に重要で、バレリーナの残りの人生すべてに寄与します。若い頃から体系的な作業をしていてこそ、最上位クラスのバレリーナになることができるのです。どんなチャンスが目の前にちらついたとしても、キョロキョロとよそ見をしてはいけません。次の段階で、マリインスキー劇場のヴァレリー・ゲルギエフ芸術監督に、「2つの家」を行き来する生活を許可してもらえたことは、運が良かったです。ゲルギエフ監督は、舞踏芸術でも音楽芸術でも、ニューヨークが重要な拠点の一つであることを理解しており、マリインスキー劇場と並行して、最初はベルリン、次にABTで活動することを承認してくれました。ニューヨーク入りはタイムリーでした。すでにプリマバレリーナとしての名声と実績があったので、バレエ団では一般的な決まりに左右されることなく、興味のある演目を自分のレパートリーに加えることができました。
写真提供:フェスティバル「コンテキスト ディアナ・ヴィシニョーワ」
-どうしてソロのプログラムをつくろうと思ったのですか。
両方の劇場のレパートリーを使い果たした時に、個人のプロジェクトのアイデアが浮かびました。クリエイティブな内容ですが、しっかりとしたプロデューサーがついていなければいけません。そのような人が「アルダニ・アーティスト」にはいます。セルゲイ・ダニリャンですが、1995年に「ボジェストヴェンナヤ」賞をダニリャンから受け取った時から協力しています。ダニリャンは私のアイデアに触発されました。でもこれは危険で困難な航海です。困難な課題は、振付師に協力を求めることですね。劇場と仕事をすることに慣れている人たちなので、個人的にバレリーナ相手だととまどうようです。
-自ら動いているのですか、それとも協力者がいるのですか。
振付家とは必ず自分で交渉します。いったん合意にいたれば、あとはうちのチームが動きます。国からの融資がないので、誰かがまとめ役をしなくてはいけません。こうして、自分の基金を創設しようと思ったのですが、これは自分のアイデア具現化ツールの一つになりました。
写真提供:フェスティバル「コンテキスト ディアナ・ヴィシニョーワ」
-クラシックのバレリーナでありながら、キャリアのピークでコンテンポラリーな振り付けの踊りを踊り始めましたね。引退を遅らせるためではなく。どうしてですか。
極端な話ではないのです。「今日はクラシックを踊って、ある日からは現代の踊りに切り替え」といった具合にはいきません。不用意なケガを避けつつ、早い時期に始め、そして徐々に覚えていったんです。もちろん、体が新しいものを拒否している時に、「こんなの止めて、自分のジゼルを踊りなさいよ」と語りかけてくるバレリーナも私の中にいます。ですが、このバレリーナをしつけて、おとなしくさせる必要があるのです。折れそうになる時は大変です。バレエダンサーの日常の肉体作業は鉱山労働に匹敵すると言われているんですから。
写真提供:フェスティバル「コンテキスト ディアナ・ヴィシニョーワ」
-サンクトペテルブルクの大公演シリーズが控えていますが、心境はどうですか。
マリインスキー劇場とABTでクラシックのラインを続けています。数年前から自分のフェスティバル「コンテキスト ディアナ・ヴィシニョーワ」を実施していますが、多くの時間と労力を要します。このフェスティバルはロシアのコンテンポラリーダンスを発展させ、若者にチャンスを与えることを目的としています。組織運営を経験し、ロシアのコンテンポラリーダンスの状況が変化していくのを目の当たりにできるので、楽しいです。自分の将来の公演のことを考えていて、ともに活動し、発展していける人を探しています。また、劇場との協力という個別のテーマもあります。あれもこれもというのは不可能ですが、努力の結晶であるしっかりとした過去があり、そして現在があるのです。
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