タギル・ラジャヴォヴ/ロシア新聞撮影
記者は、手入れの行き届いた菜園でサーシャ=ヨシテルおじさんに会った。義照さんはもう老年なのに、今も器用に雑巾を使って畝仕事をする。義照さんは私たちにお辞儀の挨拶をしながら腕を組み、私たちを家に招いてくれ、話を始めた。
朝鮮人通訳が捕虜の名前を間違え、その結果義照さんは「サダオ」になり、その後、まったく別の「サーシャ」という名前がつけられた。
義照さんの中で捕虜収容所の記憶が鮮明に残っていたのは興味深い。
「捕虜に対しては敬意ある態度がとられており、私など、ロシア語の勉強を助けてくれたくらいだ」と彼はかすかな笑みを浮かべる。
義照さんは帰国を望まなかった。彼が捕虜を体験したという事実は、「日出づる国」日本でいろいろに解釈される可能性があったからだ。運命は義照さんのこの決意を後押ししたようだ。日本へ戻ろうとした間際に、脚の炎症が始まった。
この日本人捕虜を救ったのは、ソ連の女医だった。彼女は義照さんの治療、看護にあたり、義照さんは彼女を親しく「ぼくのお医者さん」と呼ぶようになる。もう捕虜ではなくなった日本人と医師の間に心の交流が生まれた。その後、かつてのサムライは、戦った相手国の市民になった。
「いろんなところへ行き、いろんな仕事をした。極東、シベリア、ウズベキスタン、ダゲスタン、スタブロポリ、と彼は指折り数えながら笑う。
旅を追い求めて止まない彼の性癖には、彼を救った「お医者さん」も我慢できず、別れるほかなかった。だが間もなく義照さんは新しいパートナーを見つけ、その女性と結婚した。息子と娘が生まれた。しかし新しい家族も、ソ連各地を旅し続けるサムライにはついていけなかった。長い遍歴の後、ついに日本人の心を捉えたのがカルムイク共和国だ。
「私はトラクターやブルドーザーの運転がうまく、ここのチョグライ貯水池の建設に招かれた」
貯水池の建設が終わったとき、義照さんは再婚し、ダム管理業務の仕事に就く。さらに彼は、ダムの崩壊を救い、近隣集落を洪水から救うという、二つの偉業を同時になしとげた。日本人の彼が、危険な流水を最初に見つけたのだ。
またある時、酔っぱらいグループがダムに入り込んだことがある。男3人が無法行為を始め、遮断機を越えて運転指令所に侵入した。当時、もう67歳になっていたサーシャおじさんは、その酔っぱらいグループに、大人しくせよと呼びかけた。彼らは喧嘩を仕掛けてきたが、結局、彼が襲われることにはならなかった。
「一人を殴り、もう一人を肩越しに投げ飛ばしたら、みんな散り散りに逃げていった」とサムライは言う。「何を不思議がっているんです? 日本じゃ子供らは5年生の頃から喧嘩を覚える。だが喧嘩の技をずっと磨いていけば、よい成果を上げられるのだ」
「サーシャおじさん、どうしてその年齢まで長生きできたんですか?」と私は興味を覚えて聞く。「長生きと元気の秘密を教えて下さい。何か秘密のサムライ風の体操をやっているのですか?」
「やっているよ。菜園でね」と彼は冗談を言う。「苗を植え、水をやり、雑草を駆除し、収穫する。これは魚釣りと同じくらい好きだ」
その後、サーシャおじさんは真面目な顔つきになって説明してくれた。
「人間には好きな仕事がなくてはならない。それだけが私たちの生命を守ってくれる。何もせず、働かない者はすぐに死んでしまう。そんな人間は生きてる意味がないのさ」
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