エルミタージュ創立250年

アレクサンドル・ペトロシャン撮影

アレクサンドル・ペトロシャン撮影

世界有数の美術館であるエルミタージュが創立250年を控え、“最古参”の講師の一人でフランスの芸術文化勲章を授章しているナタリア・ブロツカヤさんが、ロシアNOWへのインタビューで、就職当時の思い出や最新プロジェクトなどについて語ってくれた。

 ナタリアさんは、ソ連のフルシチョフ、ブレジネフ、ゴルバチョフ時代のエルミタージュを覚えている。また、経済難のエリツィン時代にいかに“サバイバル”したかも。そして、公開講演、レクチャーを行う講演局がかつてはモイカ河岸通りには存在しなかったこと、また、どんな芸術史のレクチャーがあったかも…。

 若きナタリアさんがロシア最大のミュージアムで働き出したのは1961年のことで、ここで職を得る前に、10ほどの博物館を回ったが、どこでも「空きがない」という返事。その後で、エルミタージュに就職できるなんて夢にも思わなかった。「全部ふさがっている」と言われるのが落ちだろうと。

 ところが、他ならぬここで、お決まりの「空きがない」のかわりに、「ちょうどあなたみたいな人が必要なんです」と言われた。ナタリアさんは、その2ヵ月後にやった最初のレクチャーのことをよく覚えている。「最初は恐かったけど、すぐ慣れました」。そうやって慣れてから、もう半世紀が経った…。

 

―現在、エルミタージュに講師として就職するにはどうすればいいですか?芸術学を専門に学ぶ必要がありますか? 

 私たちは芸術学を修めた人か人文系の人を採ります。面接をして、文学、歴史、考古学、東洋学などを専攻した人を採用することがよくあります。いずれにせよ、人文系の知識は必須ですね。

 

―私はジャーナリストで、人文系の専門ですが、もし私が希望したら、採用していただけますか? 

 まず面接ですね。これがなかなか難しくて、大人数の委員会が一人ひとりと面談します。でも単に教養全般、芸術史の知識などを確かめるわけではありません。それらも、最低限必要な水準がありますが、そういったことのほかに、その人がどう話すか、答えるか、質問を浴びせられてどうしのぐか、といった点を見るのです。

 

―レクチャー以外にどんな仕事をされているのですか? 

 エルミタージュには多くのセクションがあります。そのなかには、いわゆる研究・教育部があり、そこで私は働いています。ここは、芸術、美術の普及に取り組んでいて、ホールでの様々なレクチャー、エクスカーション、講義などは、この部の職員が行っています。ですから、この人たちをガイドと呼んでもいいかもしれませんし、実際ロシアではそう呼んでいますが、外国、例えば、フランスのルーブル美術館では、ガイドとコンフェランシェール(当該の国家試験に合格した人が持つ資格で、美術館の展示品を、その背景、歴史なども含めて説明する)とを分けています。

 

ナタリア・ブロツカヤとフランスのフレデリック・ミッテラン文化相

―あなたは一日の大半を美術館内で過ごしているのですか? 

 ソ連時代は、講演局はエルミタージュ以外にもありましたから、ソ連中のありとあらゆる都市に出張しました。いくらあなたがジャーナリストでも、私が目にしたような或る国の姿はご覧になったことがないでしょう。私はウクライナ東部の最近のニュースを聞きながら、自分がドネツク(ドネツィク)を訪れるのが大好きだったことを思い出します。

 私たちは秋に行ったので、街中がバラに埋まっていたものです。講演したのは都市部だけではなくて、炭鉱のある町の文化会館や炭鉱そのものでもやりました。バルト三国は言わずもがなで、週末の2日間、講演に行ったものです。ウラル全域、シベリアの半分、アゼルバイジャン、ベラルーシなども訪れています。

 今では私は出張に行かされませんが、かわりに自分で定期的に世界中を周って、芸術家、画家たちと交流しています。パリに行くと、必ずルーブルを訪れます。私たちの研究教育部に似たセクションで全般的状況や問題の有無について聞くと、いろいろ話してくれるのです。

 

―ルーブルにはどんな問題があるのですか?ロシアと違った問題がありますか?  

 基本的に同じですけど、外国の同業者と付き合っていると時々驚くことがあります。2年ほど前、エルミタージュで会議があり、ルーブルの教育部のマノン・パトヴェン部長を招きました。彼女はやって来て、こう言いました。「あのね、ナタリア。私たちはこんな素晴らしいことを始めたんです。ルーブルがパリ郊外にも“進出”したんですよ。つまり今では、郊外の文化会館でもレクチャーをするようになりました」。彼女はすごく感激して、これはルーブルの発明だと思い込んで話してくれたのですが、でも、エルミタージュではずい分前からそういうことをやってるんですけどね。

 

―現在、コレクションは増えていますか? 

 今、素晴らしい新コレクションの展覧会をやっています。もし、おいでになれば、とても面白いものがご覧になれますよ。例えば、1997年に買い入れた数点のフランス絵画があります。購入の資金はエリツィン大統領(当時)が支出してくれました。このお金で、館長がパリのオークシォンで5枚の絵を買ったのです。 これは、うちの20世紀初頭のフランス美術の空白を埋めるもので、ラウル・デュフィ、ジョルジュ・ルオー、モーリス・ユトリロの絵画、それにシャイム・スーティンの肖像画です。もし展覧会にいらっしゃるなら、お見逃しなく。

 

―それは3階の展示品のなかにあったものですね? 

 そう、以前はそこにありましたが、もう3階には戻りません。印象派とポスト印象派は、冬宮の向かいにある旧参謀本部の翼の新ホールに移るのです。エルミタージュは発展し、拡充されつつあるというわけですね。

 

―エルミタージュの3階はひとつの特別な世界でした。事実上、博物館内の博物館でしたね。この芸術的空間が消えて歴史になってしまうのは残念じゃありませんか? 

 みんな、残念がっています。 そこの絵の配置に慣れてましたから。それに、とてもいい配置でしたね。実際、あの3階はユニークで、19世紀後半~20世紀前半の、世界最良のコレクションの一つでした。

 それらはもともと、ロシアのコレクターであるイワン・モロゾフとセルゲイ・シチューキンが集めたものです。彼らは驚くべき人たちで、フランス人よりも早く、フランスの新芸術に対する目を備えていたのです。彼らが絵を買い始めた当時は、誰も印象派などに目を向けませんでした。ましてや、マティス、ピカソなどは、大衆の耳目を驚かすだけの“案山子”にすぎないと思われていたのですね。

 このコレクションは、当時のフランス絵画の主な画家をすべて網羅しています。これらの絵が、参謀本部の新ホールでどんな具合になるか、まだ分かりませんが、肯定的な変化に抵抗するわけにはいきません。前進しなければなりませんね。

 

―あなたは人生の大部分をエルミタージュに捧げて来られたわけですが、他にもそういう方はいますか? 

 私が勤めている研究・教育部のリュドミラ・ヴォロニヒナはもう60年以上ここで働いています。他のセクションにも、こういう大ベテランがいます。東洋部の或る職員は80歳の誕生日を祝ったばかりですし、西欧美術部にも、私よりずっと年上の人がいます。

 

―エルミタージュを自分で辞める人は極めて稀だと言われていますが、本当にそうですか? 

 まあ、そうですね。“心が命じた”からではなく、無関心なのに偶々ここに入ったという人は、自分で何らかの時期に辞めることもあります。でも、エルミタージュが自分の人生だという人は、高齢に至るまで働けるだけ働きます。時々、「あなたの趣味は何ですか?」と聞かれることがありますが、変に思われるかもしれないけど、私の趣味は仕事なんです。こういう人はここには少なくありません。私たちは幸せですね。

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