よみがえりそうなVDNH

モスクワ市のVDNH(経済達成博覧会、現ロシア博覧センター)は1939年にオープンした。世界有数の大きさを誇る展示施設というだけでなく、ソ連市民が信仰した独自の教会だったと言える。
「宇宙」パビリオン=ロシア通信撮影
「宇宙」パビリオン=ロシア通信撮影

スターリンのヴェルサイユ

 噴水、彫刻、136ヘクタールの庭園、250の展示パビリオン。どれも建築の傑作や独特な建物ばかりだ。VDNHの場所は1930年代、モスクワ郊外と考えられ、ジプシーの漂泊群が生活していた。だがモスクワが近年拡大したことから、現在は市の中心部になっている。建設用地の整備には5年を要した。ジプシーの居住区は押し出され、森林は伐採され、コンクリートが敷かれた。展示品を運ぶために、モスクワの地下鉄をわざわざここまでのばしたという噂まである。

 オープンして2ヶ月半で300万人が来場。翌年も大盛況だった。ただの展示場というだけでなく、普通の労働者としてここに来て、大会の入賞者や受勲者としてここを去り、それぞれの地域で大きく出世できる、運命の転換点でもあった。イワン・プィリエフ監督は1941年、この時代の屈指の人気を誇るコメディー映画「豚飼いと羊飼い」を撮影した。ロシアの豚飼いの女性がダゲスタンの羊飼いの男性とVDNHで出会い、恋に落ちる物語。

 1941年に独ソ戦争が勃発すると、VDNHは閉鎖され、多くの展示品がモスクワから運び出されたが、ナチスドイツの爆弾はこの敷地に一つも落ちることはなく、建築物の被害は一切なかった。

農業のパビリオン=ロシア通信撮影

ソ連労働選手権

 国はVDNHには予算をふんだんにつぎこんだ。大きな建築物、広大な路、国中の代表団の歓迎とごちそう、メダルと賞状・・・政府は賞やほうびに金をおしまず、賞状や賞金を数千という単位で与えたが、このシステムはいかなるプロパガンダよりも功を奏した。数千人、数百万人という国民がVDNHから自分の市町村に戻り、モスクワの豊かさと豪華さ、温かな歓迎などについて語ると、誰もが行きたいとの夢を持ち、それが労働の目標になる。国中が工業や農業の記録更新の選手権と化した。

 

さまざまなVDNH伝説

 VDNH伝説はたくさんあるが、その一部は意外にも真実だったりする。VDNHには戦争に備えて、水や食料が備蓄されている地下壕があり、300人ほどが2日間普通に暮らせるという噂が一時期流れていたが、これは本当だった。レーニン像の下にある秘密の通路が、この地下壕につながっている。ソ連崩壊後にレーニン像が壊された時、通路はそのまま残された。

「労働者とコルホーズの女性」像=Alamy/Legion Media撮影

 1950年代、「宇宙」パビリオンのわきには、高さ25メートルの巨大なスターリン像が立っていたが、像の内部に小さなスターリン像が入っていたことは有名だった。スターリン・マトリョーシカとでも言おうか。なぜこんな不思議な像があったのかと言うと、最初に像の模型をつくり、政府の関係者にここで承認してもらったが、実物の大きなスターリン像を制作し始め、模型をどうするかという話になった時、独裁者の像を壊そうと言える勇気のある者がいなかった(これによって収容所送りになる可能性があったため)。そこで模型の外側に大きな像をつくることに決めたのである。

 スターリンは矛盾した人間だったため、不服従に対しては収容所送りと勲章授与のどちらの可能性もあった。スターリンはある時VDNHに来て、「グルジア」パビリオン(スターリンはグルジア人)の建設の様子を見ながら、パイプタバコを吸い始めた。警護が震えながら近づき、「スターリン同志、ここは禁煙です」と言うと、スターリンは吸うのをやめた。この警護は逮捕されることを覚悟したが、数日後にクレムリンから使者が訪れ、警護の用心に対して賞状と賞金を手渡した。

 

復活の時代

 VDNHはソ連崩壊後、休眠状態におちいった。新たなイデオロギーには、この労働記念施設が合わなかった。パビリオンはテナントに変わってさまざまな種類のショップが入り、蜂蜜、毛皮、マイクロ回路、インドのお香、ベラルーシのメリヤス製品、家電、中国製品など、ありとあらゆる物が販売され、庭園の小路は雑草だらけになり、建築物は痛んだ。

 モスクワの公園は近年、次々に大改修されたが、VDNHは放置されたままだった。VDNHは国の所有物で、公園は市の所有物だったため、対応に違いがあったのである。最近VDNHが市に譲渡されたため、近い将来、パビリオンが改築され、新たな建物が撤去され、池が清掃され、商売人が追いだされ、文化的空間に変わり、かつての美しい姿に戻るかもしれない。

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