作家セルゲイ・ドヴラートフ =Press photo撮影
ドヴラートフは、1941年9月3日、第二次大戦中に両親が疎開していたバシキールのウファで生まれた。父親はユダヤ人で、母親はアルメニア人。
自伝的な連作短編『わが家の人びと』によれば、父親は「演劇関係の仕事」をし、母親は印刷所の校正係だった。
1944年にレニングラード包囲戦が終わると、家族は同市に移る。1959年にレニングラード大学文学部フィンランド語科に入るが、『わが家の人びと』によると、「単なる成績不良のため」、わずか2年で除籍されてしまった。
看守が描いた収容所
ソ連では(現代のロシアでも)、学籍がなくなれば、兵役が猶予されなくなり、軍隊に引っぱられる。ドヴラートフは、1962~1965年に、ロシア北部のコミ自治共和国の矯正労働収容所で、警備兵として勤務した。はからずも刑務所の看守になったわけだ。
のちに彼は、連作短編『ゾーン(刑務所)』(1982)で、獄吏の目から見た刑務所を、いかにもドヴラートフ的に描き出す。この等身大の「収容所文学」では、囚人も獄吏も、人間としては別に変わらないのであった。
やっと1965年に兵役が終わってレニングラードにもどると、ドヴラートフは、ジャーナリストとして働くかたわら(レニングラード造船大学の新聞)、小説を書き始める。
彼の作品は、一部の文学関係者は別として、公式には評価されなかった。作品がほとんど活字にならない彼は、地下出版や外国の亡命ロシア系雑誌を通じて自作を流布するようになり、これが当局ににらまれる。
12年間の亡命生活で12冊の本を刊行
結局彼は、1978年に、ユダヤ人の移住者として出国を許され、同年ニューヨークに落ち着く。当時彼は、ソ連国内でさえ、ほぼ無名に近かったが、旺盛な執筆活動を展開し、『見えない本』(1978年)、『アンダーウッドのソロ』(1980年)、『妥協』(1982年)、『サンクチュアリ』(1983年)、『わが家の人びと』(1983年)と、12年間の亡命生活で、12冊の本を西側で出版し、高い評価を得る。
ソ連でも、ペレストロイカが始まると人気作家になり、多数出版されるようになるが、1990年、心不全のため、48歳の若さで帰らぬ人となった・・・。
邦訳に、『わが家の人びと』(沼野充義訳、成文社、1997年)、『かばん』(守屋愛訳、成文社、2000年)など。
無意味でもなく無意味でなくもない人生
『わが家の人びと』の第11章では、妻とのなれそめが回想されている。友達が家に遊びに来て、酔っ払い、気がつくと、レーナが一人だけ残って寝ていた。以来、彼女は、「私」のアパートに居つくようになるが、一線はなかなか越えさせない。レーナは、何によらずクールというかドライというか、取り付く島がないのだ。「私」はある日、酒の力を借りて気合を入れ、その一線を超える。
これが妻とのなれそめ、そして娘カーチャの誕生の経緯だったが、その母子は、ある日いきなり亡命することに決め、さっさとアメリカに行ってしまう・・・。
何があったのか、なかったのか?悲劇か喜劇か?・・・人生とは、こういう無意味でもなければ無意味でなくもなく、面白くも面白くなくもない、いわく言いがたいものではないだろうか?
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