皇帝ピョートル3世とエカテリーナ・アレクセーエヴナ、1756年 画像提供:wikipedia.org
「お前に夫と呼んでもらえぬ哀れな夫」
エカテリーナ2世は、1729年、神聖ローマ帝国領内の小さな公家に、ゾフィー・アウグスタ・フレデリーケとして生まれた。ゾフィーは、1745年にロシア皇太子ピョートルに嫁ぎ、エカテリーナ・アレクセーエヴナと名乗るが、夫婦仲は早々にこじれる。エカテリーナが夫を嫌ったようだ。
結婚の翌年、ピョートルは妻あてに「今夜を私と過ごさねばならぬか、などと心配しないでほしい・・・私たち2人にとって1つのベッドはもはや狭すぎることになった。お前と二週間断絶したあとで、お前に夫と呼んでもらえぬ哀れな夫は・・・」などと書き送っているからだ。
夫が冷たい妻に哀訴する形に見える。
エカテリーナの「手記」との矛盾
ところが、エカテリーナが息子パーヴェルに残した有名な「手記」によると、ピョートルが「あのことをどう行うべきか知らなかった」ので、なかなか世継ぎができず、しびれを切らした女帝エリザヴェータがエカテリーナに愛人をもつことを許したという。
事実、エカテリーナは、セルゲイ・サルトゥイコフなどの愛人を公然ともつようになる。
仮に、ピョートルの手紙から推測されるように、妻のほうが夫をベッドから追い出し、女帝には「夫の男性能力に欠陥あり」とうまく吹き込んだのだとすると、若くして天晴れな策士ぶりだ。
ヴォロンツォーワ姉妹も両陣営に分かれる
やがて、ピョートルのほうも、名門ヴォロンツォーフ家の令嬢エリザヴェータを愛人にする。
ちなみに、その妹エカテリーナ・ダーシコヴァ(1743-1810)は、エカテリーナ 即位に重要な役割を演じ、のちに科学アカデミー院長、ロシア・アカデミー総裁となった。姉妹で両陣営に組するというのが、いかにもだ。
女帝逝去、チャンス到来
1762年、女帝エリザヴェータが逝去し、ピョートルが即位する。当時、ロシアは七年戦争を戦っており、プロイセンのフリードリヒ2世を追い詰めていたが、極端なドイツびいきで、フリードリヒ大王を敬愛するピョートル3は、いきなり和議を命じる。
ルター派の信者であった彼はロシア正教会にも圧迫をくわえるなど、その支離滅裂な政策は内外の不評を買った。
こうした状況のなか、大貴族のニキータ・パーニンなどにエカテリーナ擁立の動きが出てくる。ちなみに、18世紀のロシアは大貴族と近衛軍の力が強く、何度も宮廷クーデターを起こしている。
あいにく妊娠中
エカテリーナにとってはチャンス到来だが、あいにく彼女は、愛人グリゴリー・オルロフの子を妊娠していて、動きがとれなかった。
彼は有名なオルロフ5兄弟の一人で、近衛軍将校。その実弟アレクセイは、同時代人の手記によれば、クーデター後にピョートルを自らの手で殺害している。
エカテリーナは閨房でも、権力へのカギとなる近衛軍との人脈作りにはげんでいた。
決行、ピョートル殺害
エカテリーナは4月にこっそりお産をすませると、一部大貴族、近衛連隊などの支持を得て、クーデターを決行する。
彼女は初めはためらっていたが、アレクセイ・オルロフが業を煮やして彼女に「気合を入れた」という言い伝えもある。
ピョートル3世は、クロンシュタットに逃げようとしたが、あえなく捕らえられ、幽閉されてしまった。ほどなく公式発表によると「持病の痔が悪化して急逝」したが、アレクセイ・オルロフらが絞殺したと同時代人は書き記している。
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