日本人初の正教司祭の沢辺 琢磨が永眠

沢辺 琢磨

沢辺 琢磨

1913年の今日、6月25日に、日本ハリストス正教会の最初の信者かつ日本人司祭である沢辺 琢磨(さわべ たくま)が東京で永眠した。

坂本龍馬の従兄弟で江戸有数の剣客 

 沢辺 琢磨は、1835年、土佐藩の郷士山本家の長男として生まれる。幼名は数馬。坂本龍馬は従兄弟に当たり、武市半平太とも縁続きである。

 初め、剣客として頭角を現し、神道無念流練兵館、北辰一刀流玄武館とならぶ江戸三大道場の一つ鏡心明智流の桃井道場で、師範代を務めるほどだった。この道場には、武市半平太や岡田以蔵も入門している。

 

運命の転換 

 そこへ、彼の運命を大きく変える椿事が起きた。酒を飲んだ勢いで、道で拾った金時計を売り飛ばしたのが発覚してしまう。龍馬や半平太に助けられて、江戸を逃れ、流れ流れて函館にいたる。

 函館では、道場を開いて生計を立てるが、そんななかで知り合った箱館神明宮(現・山上大神宮)宮司の沢辺悌之助の婿養子となる。

 函館には、ロシア帝国の領事館があり、その館員に日本の武道に興味をもつ者があり、琢磨は請われて指南役となった。

 

ニコライ神父との出会い 

 そこで彼は、領事館付属聖堂の司祭ニコライ神父(俗名ニコライ・カサートキン)と出会う。ニコライは日本での布教を目指し、日本の古典や歴史を学んでいた。

 琢磨は、ニコライを情報収集に従事する密偵であると疑い、ある日ニコライを訪ね、訪問の意図を質す。返答次第では斬殺する覚悟だった。

 ニコライは、琢磨の疑念に答えるとともに、正教の教えを知っているかと聞いた。「知らない」と琢磨が言うと、「まず知ってから善悪を判断しても遅くないだろう」とニコライ。

 「なるほど、一理ある」と思った琢磨は、ニコライのもとに通って正教の教えを学ぶようになる。

 ちなみに、ニコライは新島襄らに日本語を教わっており、1864年に彼が米国に密航するに際しては、琢磨らが手助けしている。

 やがて琢磨はニコライに心服するようになり、まだ禁教令が撤廃されていなかった慶応4年4月(1868年)に、友人とともに洗礼を受ける。与えられた洗礼名はパウェル(パウロ)で、ニコライの期待のほどがうかがわれる。

 

日本人初の司祭に叙聖 

 まだまだ攘夷論が盛んななか、“邪教に改宗した神主”の一家は、厳しい迫害を被り、琢磨は何度か逮捕、投獄されている。

 やがて明治政府が禁教令を廃すると、琢磨は釈放され、公の布教が可能になった。1875年(明治8年)、琢磨は日本人初の司祭に叙聖される。

 琢磨は正教の布教に生涯を捧げ、師ニコライが1912年(明治45年)に永眠すると、翌1913年(大正2年)に後を追うように逝去し、青山霊園に葬られる。

このウェブサイトはクッキーを使用している。詳細は こちらを クリックしてください。

クッキーを受け入れる