ボリス・パステルナーク、20歳時。
父レオニードは画家で、文豪レフ・トルストイと親しく、その長編『復活』の挿絵はとくに有名だ。母はピアニストのローザ・カウフマン。パステルナーク家は、トルストイのほか、当時の画家、美術家たちはもちろん、作曲家のラフマニノフ、スクリャービン、詩人リルケなどとも親交があった。
13歳のときにパステルナークは、スクリャービンの影響で音楽に熱中し、彼に師事しつつ6年間音楽を学んだ。彼の当時の音楽作品も残されている。
モスクワ大学歴史・哲学科に学び、1912年にはドイツのマールブルク大学に留学し、新カント派のヘルマン・コーエンに師事した。コーエンは、パステルナークにドイツで博士号を取得することをすすめたが、彼は、1914年にモスクワに戻り、同年、処女詩集『雲の中の双生児』を出版して、未来派に加わる。
沈黙を強いられながら『ドクトル・ジバゴ』の創作に打ち込む
1922年に出された詩集『わが妹 人生』(副題:1917年夏)では、「現代詩の新しい言葉」との高い評価を得た。同年、パステルナークの両親はソ連を去るが、彼は故国にとどまる道を選ぶ。
1920年代から30年代にかけて、旺盛な活動を続けつつ、革命と個人の運命について思索を深めていく。しかし、1934年、ブハーリンに擁護されたのが仇となり、作家大会で「非政治性」「形式主義」のレッテルを貼られ、戦中、戦後にかけて沈黙を強いられる。
この間、シェイクスピアの戯曲や『ファウスト』などの翻訳を手がけ(いずれも名訳の誉れが高い)、さらに、10年以上の歳月をかけて、畢生の大作『ドクトル・ジバゴ』の創作に打ち込んだ。
しかし、ソ連での刊行は、体制批判のために拒否され、1957年にイタリアで出版される。
1960年、パステルナークは、肺がんのため、モスクワ郊外のペレデルキノ村で亡くなった。
レクイエムと予言
『ドクトル・ジバゴ』は、葬儀の場面で始まる。読者は、頁をめくり始めるとすぐにその雰囲気と作者の深い思いに心を捉えられる。冒頭の葬送は、主人公ジバゴがこれから生きねばならぬ時代の予告であり、パステルナークが生きてきた時代へのレクイエムだ。
彼が生きた時代は途轍もなく困難な時代であった。しかし、どんな苦難のなかにあっても、何事かを成し遂げることはできる。そのことをこの作品は教えてくれる。
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