ルスト青年の父は、ビジネスマンでセスナ機を西独で販売していた。写真はセスナ172B。
シェレメーチエヴォ第3空港
冷戦のさなかだけに、この事件は世界を驚かせ、ソ連の軍当局は面目丸つぶれの形となり(この日はたまたま、国境警備隊の記念日であった)、赤の広場には、「シェレメーチエヴォ第3空港」という自虐的なあだ名がついた。
民間機の撃墜は禁止
ルスト青年の父は、ビジネスマンでセスナ機を西独で販売していた。青年は、現在も生産されているロングセラー、セスナ172Bで、14時20分に高度600メートルでエストニアに侵入した。
軍当局はこれをキャッチし、戦闘機がスクランブル発進したが、撃墜は許可されなかった。これは大韓航空機撃墜事件後の1984年から、民間機の撃墜が禁止されていたためだ。
「ソ連中が大ショック!」
ルスト青年は赤の広場の脇の橋に着陸すると、聖ワシリイ大聖堂前まで移動し、群がる市民がサインを求めるのに応じたりしていたが、10分後に逮捕された。
ソ連の新聞は、「国中が大ショック! よりによって西独の、おまけにアマチュアのパイロットなんかに着陸されて、ソ連の防空軍は赤っ恥もいいとこだ! おまけに、今日は国境警備隊の記念日なのだ」などと書きたてた。
軍関係者約300人が解任
事件の責任をとらされて、セルゲイ・ソコロフ国防相とアレクサンドル・コルドゥノフ防空軍総司令官以下、約300名の軍関係者が解任された。
同年9月4日、ルスト青年は、領空侵犯とフーリガン行為で、禁固4年を言い渡されたが、432日服役したところで、翌88年8月3日に恩赦を受け、帰国した。裁判でルストは、飛行は「平和を呼びかけるため」と陳述していた。
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