「自分の”歴史愛病”をうつしたい」

=ロシア通信撮影

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ボリス・アクーニンが羨ましいと思う。生きていることが面白いと常に感じられるような運命を、この作家は自分自身で築いた。ロシア国家史を書くというアクーニン氏の新たなプロジェクトに、すでに大きな期待が寄せられているのは当然だろう。ためになる本というだけでなく、読者を魅了するに違いないと信じられている。このような難しい課題をこなすには、どんな能力が必要なのだろうか。

-この大仕事をすると決めた時、どういう目標を立てましたか。

 完全かつ整然としていて、いかなる学説にも影響を受けていないロシア史の本を書きたいと思ったことが一つ。自分の”歴史愛病”を多くの人にうつしたいと思ったことが一つ。これまでと違った書き方をし、これまで書かれていなかったことを書き、それによって、文学のジャンルを変えたいと思ったことが一つ。これで十分でしょうか。

 

巨大で書きつくせないことがらがありますが、ご自身の仕事では何を研究されるおつもりですか。

 ロシアの国家史です。つまり政治史、政府機関の継承史です。国家の歴史に関係する場合に限り、文化、経済、宗教などの他の分野についても触れます。

 

既存の歴史観についても論じますか。歴史家の誰を信頼していますか、また信頼してませんか。

 これまでの歴史観についても簡単に触れますが、議論を仕掛けることはしません。この仕事をすると決めた時、いかなる先入観も持たないと決めました。すべての理論とコンセプトを歓迎します。著者を信頼する度合いは、その本の中に、“お上の注文”が感じられるか、またどのくらい議論を“吹っかけているか”によります。そういった度合いが強くなると、信頼度は下がりますね。私が書くものは議論を仕掛けるものでもないし、ましてや議論のための議論を吹っかけるような類のものでもありません。何か発見をして、“新しい言葉”を語るつもりもありません。歴史学者にとっては退屈な本になるでしょう。ソ連時代、このジャンルは”ポピュラー科学”なんて呼ばれ方をしていました。広く知られている事実を系統化し、シンプルな言語で書くのです。それが私の「ロシア国家史」です。

 

ご自身の歴史観はありますか。

もちろんです。ただそれは主に、すでに存在しているものから取り入れます。私の個人的な結論も当然あります。ですが、通常それは読者が総合的な情報をすでに得ていて、私と同じ状況にある時、すなわち各章(各本)の最後に書きます。私とは異なる結論に達する人もいるかもしれませんね。

 

お書きになる歴史を読者が信頼するとしたら、どんな点でしょう。

 私のあけっぴろげなところで信頼してもらえればと思っています。私は率直に、「これは自信がない」とか、「これは確実に証明されていない」とか、そういう書き方をしますから。読者に無理に同意してもらう必要はありません。歴史に関心をもってもらえれば十分です。

 このプロジェクトの一環として、私の歴史集(全8巻)と一緒に、各時代についての最もすぐれた歴史書も出版したいと思っています。これらの書籍すべてが同じロゴで本屋の同じ棚に並ぶというのが理想的です。最初に娯楽的な歴史の中編小説(フィクション)を読み、その時代に興味を持って、実際にはどうだったのかを知りたくなり、歴史集を買うといった流れになればと思います。その後同時代に関する他の本も読むと。

 

現在はどの調査段階にありますか。

 ルーシからモンゴルとの衝突までの1巻です。すでに書き終わりました。現在は、挿絵や地図が描かれており、専門家と相談しています。同時に古代ルーシに関する中編小説も書いています。1巻ではそれが3編あります。まじめな歴史書と娯楽小説が交互に出てくる本です。これはやる気が出ますし、仕事にもメリハリがうまれます。

 

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ご自身の仕事に自信が持てるとしたら、その理由は何でしょうか。

これを仕事だと見なしていないことです。ロシア史についての知識を深めることは、仕事ではなく、快感です。非常な興味を持って資料にのめり込んでいます。内容を精査して、これは事実、これは仮説、これは面白いディテール、これは私の個人の考えといった具合に、より分けていきます。その後、女性が美しい三つ編みを編むように、愛情をこめて束を編んでいきます。こんな楽しい時間の過ごし方を10年分確保したことに、喜びを感じています。

 

—10年後の生活は誰にもわかりませんが、プーチン大統領が述べた「矛盾しない歴史」から判断すると、教科書の中のロシア史は「唯一正しい」説明に従って今後修正されることになります。矛盾しない歴史というのは可能でしょうか。

 歴史書は主に二つのジャンルにわけることができます。一つ目は、広く認められている事実です。これは言うなれば、学校で学ぶ必要のあるもので、できるだけ子供にとっておもしろいものであることが望ましいです。二つ目は、解釈、調査、新しい学説、仮説です。当然、一つ目のジャンルのほうが、矛盾してはならないという要求がずっと強いわけですが、断定的な評価は避けねばなりません。私が書いている歴史とはこのようなものなのです。

 

元記事(露語)

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