レフ・トルストイとマクシム・ゴーリキー、1900年。
4歳で父を、10歳で母を失い、話し上手な祖母に育てられる。12歳から、靴屋の小僧、汽船の皿洗い、パン職人、守衛などさまざまな職を転々としながら、各地を放浪する。1887年に自殺未遂。この間の事情は、自伝三部作に生き生きと語られている。
読者を奮い立たせる傑作
1890年代からマクシム・ゴーリキーの筆名で、「マカール・チュドラ」、「チェルカシ」、「イゼルギリ婆さん」などを書き、人気作家となった。今日、ゴーリキーはあまり読まれないが、これら初期の作品群は、読むと元気になる特異な傑作だ。
レフ・トルストイと親しく、彼に関する回想を残している。この真の批判精神と愛情に満ちた文章はゴーリキーの作家としての眼力をよく示している。
革命への失望、毒殺?
1905年の第一次革命のころにレーニンと知り合い、資金面などでボリシェヴィキを積極的に援助する。だが、10月革命では、ボリシェヴィキに失望し、「レーニンもトロツキーも、自由と人権についていかなる考えも持ち合わせていない。彼らは既に権力の毒に冒されている」と記している。
21年、持病の結核の療養もかねて出国し、イタリアのソレントに住む。しかし、窮乏生活を強いられたゴーリキーは、28年にソ連政府とスターリン自らの招きに応じて、ソ連を訪れ、その“成果”を視察した。結局、32年に帰国し、ソ連の宣伝に利用される。36年に死去。当局による毒殺説もある。
代表作としてはほかに、散文詩「海燕の歌」(1901)、長編小説「母」(1907)など。
「ロシアの“浮浪者”の恐ろしさ」
レフ・トルストイは1900年に、ゴーリキーと初めて会ったあとで、「彼は、生きた魂というものを放浪者を描きつつ見せてくれた。ドストエフスキーはそれを犯罪者で示した。これはゴーリキーの功績として残るだろう」と言った。
当のゴーリキーは後年こう書いている。「ロシアの浮浪者というやつは、私が描いたものなんかより、恐ろしいものなんだ。ロシアの浮浪者が絶望すると恐ろしい。考えてもごらんなさい。彼らがいなければ、こんなロシアも、こんな革命もなかっただろうよ」。
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