カラマーゾフの兄弟

亀山郁夫氏とボリス・アクーニン氏 =ロシア通信撮影

亀山郁夫氏とボリス・アクーニン氏 =ロシア通信撮影

 亀山郁夫氏訳の「カラマーゾフの兄弟」が古典としては珍しくベストセラーになり、年初からは同名のテレビドラマが放映中。日本におけるカラマーゾフおよびドストエフスキー・ブームはロシアからみても興味深いものだ。「ロシア」と同意語とさえ比せられる「ドストエフスキー」の影響は文学だけにとどまらない。さまざまな国民が、ドストエフスキー文学の登場人物の中に自分の心理、情感、魂を見いだす。ドストエフスキーの小説群は人間性の研究なのだ。

「カラマーゾフの兄弟」を翻訳し、最新のドストエフスキー・ブームの立役者となった亀山郁夫・東京外国語大学学長に聞いた。

 

日本でのカラマーゾフ(ドストエフスキー)ブームをどう感じていますか。

  驚くべきことですし、素晴らしいことです。現代の日本を代表する作家の多くが、確実にドストエフスキーを意識して小説を書いています。村上春樹、辻原登、高村薫、平野啓一郎、鹿島田真紀、中村文則といった作家たちです。

  ドストエフスキーの文学が提出する問題、罪とは何か、罰とは何か、あるいは、マゾヒズムの本質、自己犠牲、黙過といった問題が現代の日本人にとって痛切な響きを帯びつつあるように思えます。3・11以降、日本人の心のなかに広がる一種の終末観もドストエフスキー文学への関心の広がりに拍車をかけているのかもしれません。

 

「カラマーゾフの兄弟」を翻訳してどういう反応がありましたか。

  翻訳に対して、一部から厳しい批判を受けたのは事実です。修正すべき箇所をすべて修正しました。

 

日本ではなぜロシア文学が根強い人気を保ち続けていますか。

 日本の文化にないものが、ロシアの文化にあり、ロシアの文化にないものが日本文化にある。限りない繊細さを志向する日本文化と、激情的な精神のダイナミズムを体現するロシア文化です。

 ドストエフスキー文学の読者は、それらの二つの要素が融合した世界を経験できるのです。ロシア文学の魅力は「ケノーシス」、自己犠牲のテーマです。これこそが、ロシア精神の根源に息づいている最高の価値だと信じています。全体的な力の憧れは、個人の生のはかなさの感覚を裏返したものといえるでしょう。

 チュッチェフの詩が思い浮かびます。「ロシアは知恵ではわからない」。言い換えれば、ロシア文学は、精神的ボルテージとインスピレーションの高揚の中でのみ理解できるということだと思います。辻原、村上以外に三島由紀夫、大江健三郎も『カラマーゾフの兄弟』を高いインスピレーションで経験してきた作家といえるでしょう。正に日本文学のエッセンスを体現する作家たちです。

 

翻訳で難しかったこと、苦労したことは何ですか。

  いかに現代人向けの読み物とするかということです。これだけ長い小説に目を向けさせるためには、スピード感あふれる翻訳が大切だと考えました。

  私の翻訳者としてのモットーは、映画を見るような感覚でドストエフスキーを読むことができる翻訳をするということです。最後まで読み通してもらうための工夫をすべて試みました。  

 

翻訳前と翻訳後で何か変わったことはありますか。

  『カラマーゾフの兄弟』の翻訳をすることは、ロシア文学を志したものにとっての究極の夢といってよいでしょう。自分なりに全力を尽くしてその義務を果たしました。

  東京外国語大学のロシア語学科に入ってくる学生の中にも、すでに『カラマーゾフの兄弟』を読んだ学生が少なくありません。

 しかし、ドストエフスキー・ブーム、いや『カラマーゾフの兄弟』ブームが真の実りを結ぶのは、これからと考えています。

 例えば、1月から『カラマーゾフの兄弟』がテレビドラマ化されていますが、この番組を企画したディレクターも、この小説の素晴らしさに接した女性でした。

 実は、ロシア料理の有名レストランもすさまじい人気なのです。予約をとらなければ、とうてい入れません。

新版の翻訳者・亀山郁夫氏

 日本のロシア文学者。東京外国語大学学長。専門はロシア文化・ロシア文学。単著には『「カラマーゾフの兄弟」続編を空想する』『ロシア・アヴァンギャル』など。訳書にはドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』(全5冊)、『罪と罰』、(全3冊)、『悪霊』(全3冊)、『悪霊 別巻「スタヴローギンの告白」異稿』などがある。

 現在私は、北海道大学の望月哲男教授、東京大学の沼野充義教授らとともに、新たに日本ドストエフスキー学会を立ち上げるべく準備を行っているところです。

 

これからロシア長編文学(ドストエフスキー、トルストイ)を読んでみようと思っている若い人へのアドバイスをいただけますか。

  ロシアの歴史をしっかり学び直してほしい。幸薄いロシア民衆の傍らで、若い知識人がいかに引き裂かれ、苦しんだかを知ってほしい。

 

文学を中心に現在のロシアの状況をどう感じていますか。

  おそらく世界の文学の中で、今、日本で最も人気の高いのがロシア文学だと思います。10年前と比較して驚くべき事態です。ワシーリー・グロスマンの『人生と運命』の翻訳(斉藤鉱一訳)が出版され、日本翻訳文化賞を受賞しました。

 また、最近の日本で話題になった作家は、ボリス・アクーニン、リュドミラ・ウリツカヤ、ウラジーミル・ソローキンです。ウリツカヤの短編集『女が嘘をつくとき』とソローキンの『青脂』の翻訳は特に高い評価を受けました。

 他方、ロシアの美術、映画などは最近、あまり話題になりません。ロシア・アバンギャルド、ソッツアートに対する関心は、総じて低下しています。 

 

日本におけるロシア文学者、ロシア語学習者の現状はどうなっていますか。

  日本におけるロシア文学研究のレベルは極めて高いと認識しています。しかし、若い研究者は、ほとんど大学での職を得ることができず、苦境を強いられています。

 大学で、ロシア語を学ぶ学生が少ないのが原因です。グローバル化の流れのなかで、受験生の関心がますます英語に向かっており、英語以外の言語は人気がありません。

 ところが、07年以降、徐々に人気回復が進んでいることも事実であり、転機の兆候がうかがわれます。ロシア文学ブームの到来と軌を一にしているといってよいと思います。

 いかにしてロシア語熱を盛り上げるかはほとんど政治、外交レベルに託されています。日露間の領土問題が、互いのぎりぎりの歩み寄りのなかで解決され、両国間で平和条約が締結されるならば、日本人のロシア語熱、投資熱は飛躍的に拡大することでしょう。

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