日ソ共同宣言調印

2012年10月19日 RBTH
1956年の今日、モスクワで鳩山一郎首相と、ソ連のブルガーニン首相が、日ソ共同宣言に署名した。
タス通信撮影
タス通信撮影

第二次世界大戦後の混乱が収まるにつれて、日本と連合国間の平和条約締結が焦眉の課題となった。その際、アメリカをはじめとする資本主義国との単独講和か、ソ連など社会主義国をもふくむ全面講和かが問題となったが、親米路線の吉田茂首相は、単独講和に踏み切り、1951年にサンフランシスコ平和条約をむすんだ。

国際環境の変化 

しかし、1953年のスターリンの死、同年の朝鮮戦争休戦、1954年の吉田茂の退陣などで、日本とソ連をとりまく状況は変化し、日ソ双方から、国交回復への動きが現れた。

1955年、ロンドンの在英ソ連大使館で、国交正常化交渉が始まり、紆余曲折を経た後、56年10月12日に鳩山首相は訪ソし、日ソ共同宣言調印に調印した。これにより、両国の国際法上の戦争状態に終止符が打たれ、国交が回復し、日ソ通商条約が締結された。

いわゆる領土問題については、両国の平和条約締結後にソ連が歯舞群島と色丹島を引き渡すことを前提に、改めて平和条約の交渉を行うことで合意した。

 

冷戦の綱引きのなかで 

共同宣言調印に先立ち、同年8月に、米国のダレス国務長官は、重光葵外相との会談で、択捉島と国後島の領有権をソ連に対し主張するよう迫り、二島返還で妥結すれば、沖縄の返還はないと、対ソ交渉に圧力をかけていた。

その後の冷戦激化のなかで、日ソ共同宣言はソ連により反古にされたかたちとなったが、冷戦終結後、領土問題をめぐる環境も変わり、2001年の「イルクーツク声明」で、共同宣言の法的有効性が確認されている。

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