ナポレオンの「大陸軍」がモスクワに入城

モスクワの火事(1812年) =ビクトル・マズロフスキー(1859ー1923年)

モスクワの火事(1812年) =ビクトル・マズロフスキー(1859ー1923年)

 1812年の今日、帝政ロシアで使われていたユリウス暦でいうと9月2日に、ナポレオンの「大陸軍」が、ロシア軍が戦わずして放棄したモスクワに入城した。前日の13日、ロシア軍は、軍議でモスクワ放棄と撤退を決めていた。

この間の経緯は、比較的よく知られているが、それはおもに、馬事総監で前駐露大使だったコランクールや、ナポレオンの副官セギュールの回想など、フランス側の資料を通してだ。ここでは、ロシア側の資料から、モスクワ放棄にいたるその楽屋裏をみてみよう。

ボロジノ会戦で仏軍を上回る大損害 

ロシア軍は、9月7日(ユリウス暦8月26日)のボロジノの会戦で善戦したが、大損害をこうむった。

双方の戦前の戦力と損失は、“大本営発表”のせいで粉飾されることが多いが、ニコライ・トロイツキーが自著『1812年』で、軍の名簿などで試算したところでは、戦前は露軍16万(義勇兵2万弱をふくむ)、仏軍は12~13万。会戦による死傷者は、露軍が6万、仏軍が3万弱といったところ。

会戦の結果、両軍ほぼ拮抗したわけだが、仏軍は最精鋭部隊の2万の古参近衛軍を温存しており、露軍としては、もう一戦交えるのはむずかしかった。

露軍はモスクワまで撤退したところで、最終的な決断を強いられた。首都を守るため、その前面で戦うか、戦わずして明け渡すかだ。

モスクワ防衛戦を行えるか?:極めて不利な陣地 

いちおう、参謀総長のベニグセンが陣地を選んだ。その陣地の右翼の端はフィリ村にあり、そこから、セトゥニ川の流れる低地を通って、雀が丘まで伸びている。これが左翼の端だ。

しかし、この陣地がきわめて戦いにくいということは、諸将の一致した見解だった。その理由は、

1)セトゥニ川周辺は、急傾斜が多い湿地帯で、移動がむずかしい。

2)左翼の雀が丘は、背後に崖とモスクワ川があるので、文字どおり背水の陣となってしまう。

3)敗走した場合には、道路が網の目のように走っている大都市のなかを通って逃げることになるので、市中で四散し、軍隊そのものが消滅するおそれがある。

フィリ村で軍議召集:だれも撤退の言い出しっぺになりたくなかった 

エルモーロフ(当時少将)の覚書によると、9月13日(ユリウス暦1日)朝、彼がこの陣地では敵を持ちこたえられないのでは、と疑念を表すと、クトゥーゾフは諸将の面前で、エルモーロフの脈をさぐり、「君、病気じゃないか」と言ったという。

しかし、夕方近く、こんどは第1軍司令官バルクライ・ド・トーリが「この陣地では戦えない、モスクワは放棄すべきだ」と説得しはじめると、クトゥーゾフは「注意深くバルクライの言うところを聞き、退却を自分が言い出したのでないことで満足感を隠せず、さらにできるだけ自分への非難をかわすために、8時までに諸将を軍議に招集するよう命じた」。

モスクワ放棄決定:事態の最終確認 

フィリ村でおこなわれた名高い軍議は、出席した総司令官クトゥーゾフ、バルクライ・ド・トーリ、エルモーロフがメモ、回想を残している。開始時刻、出席者の顔ぶれ、個々の発言などで多少ちがっているところはあるが、大筋では一致している。

会議の口火を切ったのはバルクライだ。彼は理路整然と陣地の不利を指摘したうえで、軍が健在であるかぎりは、首都を失っても負けることにはならないとして撤退を主張した。

クトゥーゾフもこれを支持し、撤退を命じる。

「モスクワを失うことは、まだロシアを失うことではない。自分の第一の義務は、軍を守り、軍の増援におもむきつつある部隊と合流することだ。そして、モスクワを敵にくれてやることで、敵の必然的滅亡を準備することである。これらの点を考慮して、モスクワ市内を通過し、リャザン街道を通って退却するつもりだ」(クトゥーゾフの軍事日誌)。

軍議がおこなわれた場所には現在、博物館「ボロジノの会戦のパノラマ館」がある。

なぜリャザン街道カルーガ街道のルートをとったか 

露軍はなぜリャザン街道を経由してカルーガ街道に移動したのか。

バルクライが会議で主張したように、ウラジーミル方面に退いて、南部から補給を受けることも考えられなくはないが、秋にオカ川が増水、氾濫する可能性が大。そうなると、南部から切り離されてしまう。

一方、カルーガには食糧基地があり、トゥーラの兵器工場もちかい。ブリャンスクにも兵器工場があった。

では、なぜクトゥーゾフはただちにカルーガ街道に入らず、リャザン街道を経由したか。

フィリからすぐカルーガ街道に入ろうとすると、急傾斜、川、ぬかるみを越えねばならないのにくわえ、仏軍に対し横腹をみせて進まねばならない。

リャザン街道は、モスクワ川を渡ってしまえば、比較的安全である。このあたりでモスクワ川はかなりの川幅になる(「祖国戦争とロシア社会」第4巻所収「モスクワ放棄からタルーチノまで」)。

もぬけの殻のモスクワに入城 

軍議の翌日の14日、ナポレオンと「大陸軍」はついにモスクワに入城しはじめる。ナポレオンは、「ポクロンナヤの丘」に着き、そこでしばし感慨にふけり、首都の代表団を待った。

 ポクロンナヤの丘は、モスクワ都心から西方にのびるクトゥーゾフスキー大通り沿いにあり、1812年当時は、モスクワの郊外で、そこから同市のパノラマが一望できた。

昔から旅人は、ここでたたずみ、首都をながめ、「四十の四十倍」の教会にぬかずく。そこからポクロンナヤの丘の名がある(ポクロン «поклон»=叩頭)。また、かつてはここで外国の使節団などの賓客を迎えた。

この故事にしたがって、ナポレオンはクレムリンの鍵をもった代表団を待ったわけだが、待てど暮らせど、だれもこなかったばかりか、市が文字どおりもぬけの殻になっていると聞き、仰天した。このあたりの喜劇は、コランクールとセギュールが活写している。

当時のモスクワの人口は25万ほどだが、残った数はというと、ソ連時代の史家エフゲニー・タルレは「数千人」だという。正確な統計はないし、ありえない、と。

陸軍中将ドミトリー・ヴォルコンスキーの日記によると、彼は11月27日(15日)にモスクワ入りして状況をつぶさにみているが、仏軍占領時に残っていたロシア人は1万人以下だと言う。

だが、ナポレオンと大陸軍にはもっと驚くべきことがまちかまえていた。この日、14日に出火し、18日まで燃えつづけて市の4分の3を灰にした「モスクワの大火」だ。これについては、「日」を改めて述べることにしよう。

年表 

9月7-8日(ユリウス暦8月26-27日)深夜:ボロジノの会戦後、露軍はモスクワへ撤退。

9月13日(9月1日):露軍は夕刻から夜にかけて、フィリの会議で、モスクワ放棄を決め、2日にかけての深夜、撤退を開始する。

9月14日(2日):露軍は、モスクワ市内を通り、撤退をつづける。前後して、ミュラー元帥指揮する仏軍前衛(約2万5千人)が、クレムリンを占領。ナポレオンの主力部隊も、夕方、モスクワ入り。ナポレオンは、市のはずれに泊まる。この夜、クレムリンにちかいキタイ・ゴロドなどでつぎつぎに出火。

9月15日(3日):朝、ナポレオンは近衛軍とともにクレムリン入城。このとき、すでにキタイ・ゴロド全体が燃えていた。同日夜には、クレムリン周辺をふくめ、モスクワ全体が火の海につつまれる。

9月16日(4日):早朝、ナポレオン、クレムリンから命からがら避難。大火は18日まで燃えつづけ、市のおよそ4分の3を焼きつくす。

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